「男の椅子を女が奪っている」というお門違いの批判

レピーヌと同じように、女性の権利を拡大しようとする社会的な動きに対する「男の椅子を女が奪っている」といった批判は、お門違いもいいところで、取り合うに値しない。かつて女性は政治参加も、教育を受ける権利も認められておらず、家庭から出て仕事に就くこと(経済力を持つこと)も許されていなかった。そのようにして、長くにわたり男性が独占し続けてきた政治・教育・就労に女性が参加できるようになったことは、女性が奪われ続けてきた権利がいわば「本来あるべき形」に返っただけであり、間違っても「女性優位」によって男性の権利を侵害しているものではない。

このように、一部の男性が「フェミニズムによって自分たちの権利を奪われている」と感じる現象を、カナダのジャーナリストであるレイチェル・ギーザは著書『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(DU BOOKS)のなかで「権利の不当な剥奪感」と表現している。

握りしめた拳
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「女性差別」がないと信じたい人々

女性をターゲットにしたテロや事件が発生したとき、または、女性が「性別」を理由に差別的で理不尽な目に遭わされたとき(例えば医大の入学試験で、大学側が女性の受験者の点数を差し引く不正が判明したようなとき)、どうしてもその事実を受け入れられない、認めたくない人々が世の中にいる。

今回発生した「小田急線刺傷事件」では逮捕された男が「女を殺そうと思った」と明確に供述しているにもかかわらず、「被害者には男性も含まれているので女だけを狙ったというのは女の被害妄想である」「フェミニストが自分の主張に都合よく解釈しているだけ」という趣旨の発言が、SNSやインターネット上に大量にあふれていた。

「被害者に男性が含まれていれば、女性を狙った犯行ではない」という主張について考えてみる。たとえ犯人が「女性だけを殺す」と決めて「逃げ場がないので大量に殺せる」であろう電車に乗り込んだとして、目の前で突然女性が刺されたのを見た乗客たちによってパニック状態に陥った車内で、「女性だけ」を狙って、しかも大量に殺害することは難しいだろう。

実際、一人目を刺したあとの経緯について男は「興奮していて覚えていない」と話している。そんな状況下で、さらに自分が力ずくで取り押さえられる可能性があることも踏まえれば、「女を大量に殺す」という目的を遂行するために、相手が男性であっても、周りにいる人間すべてに切りかかることは十分考えられる。

上記のような理由から、「被害者に男性が含まれている」ことで「この事件はフェミサイド(性別を理由として女性が標的となった男性による殺人事件)ではない」と主張するのは、根拠としてほとんど意味がないと感じる。