「タピる」を言語学的に考えてみる
まずは、読者の皆さんが「タピる」と「タピオカを飲む」についてどう感じられるかテストしてみよう。次のように、「タピる」と「タピオカを飲む」以外はまったく同じであるような文を作り、これからこの二つの言葉が「同じ意味かどうかを判定するテスト」をする。
(1)
a.私は家に帰る途中でタピった。
b.私は家に帰る途中でタピオカを飲んだ。
テストの手順は、ふたつの文をつなげた上で、一方の文を肯定し、もう一方の文を否定するというものだ。ここでは、「(1)aの肯定文+(1)bの否定文」と「(1)bの肯定文+(1)aの否定文」を作ってみよう。すると、以下が出来上がる。ちなみに、(2)のカッコ内は省略して読んでも構わない。
◇(2)a.(1)aの肯定と(1)bの否定をつなげた文
「私は家に帰る途中でタピったが、(私は家に帰る途中で)タピオカを飲んだわけではない」
◇(1)bの肯定と(1)aの否定をつなげた文
「私は家に帰る途中でタピオカを飲んだが、(私は家に帰る途中で)タピったわけではない」
(2)a、bの両方について「矛盾している」と感じる人は、相談者と同じく「私は家に帰る途中でタピった」と「私は家に帰る途中でタピオカを飲んだ」の表す状況が同じである、と考えていることになる。すなわち、両方に矛盾を感じる人たちにとっては、「タピる」と「タピオカを飲む」は「同じ行為(状況)を表している」ということになる。
これに対し、どちらかあるいは両方に矛盾を感じない人は、「タピる」と「タピオカを飲む」がまったく同じ行為ではないと考えていることになる。たとえば「タピる」に対して「タピオカの入った飲み物を飲むか、あるいはタピオカの入った食べ物を食べる」という意味を付与している人は、(2)aをおかしいとは感じないだろう(つまり、タピオカを「食べた」可能性があるということだ)。また、友人Aのように、「タピる」には「私は若い」という意味も含まれていると考える人や、友人Bのように「タピる」に「友人と一緒にタピオカ屋に行き、タピオカドリンクを飲みながら楽しくおしゃべりをする」などといった意味を付与している人にとっては、(2)bは矛盾しない。
「タピる=私は若い」?
さらに、友人Aの言う「『タピる』という言葉には『私は若い』という意味が含まれている」という主張をもう少し掘り下げてみよう。友人Aの主張のとおりなら、「私は家に帰る途中でタピった」という文は、「私は若い」という内容を含意していることになる。このことを、「含意される内容かどうかを判定するテスト」で検証してみよう。
テストの方法は、先ほどの広報誌インタビューの時と同じだ。「私は家に帰る途中でタピった」という文と、「私は若い」という内容の否定をつなげると、次のようになる。
私は家に帰る途中でタピったが、(私は)若いわけではない。
この文に対して、矛盾は感じられるだろうか? 矛盾が感じられる人は、「タピる」を友人Aと同じように理解していることになる。ちなみに、私個人に関して言えば、とくに矛盾は感じない。「もう若くないのに、若い人がするようなことをしてみた」という照れのようなものは感じられるが、それは矛盾とは違うように思う。よって、少なくとも私の「タピる」の理解においては、友人Aの言うような「私は若い」という意味は入っていないようだ。