給料を払えず社員が蒸発……
それから、日本企業や旅行者を相手にするコーディネーターの仕事に切り替えた。収入が激減し、借金の返済だけで精いっぱい。胡椒を仕入れて輸出する余力も資金もなかった。1999年から2000年にかけての時期だ。
倉田さんによると、胡椒は十数年に1度、価格が急騰する。ちょうどこの時期がそれに当たり、農家の人たちは上機嫌だった。
「お前に売ってもらわなくても大丈夫、畑は任せろと言われて。本当はその売れたお金で借金を返したいんだけどなって思いました」
一方、医療機器の販売をするために雇った3人の社員は、給料の支払いが遅れると、間もなく、車やパソコン、自転車とともに姿を消した。
「しゃあないなって思っていました。給料が払えない自分が悪いんです」
2000年、3人の社員が蒸発して、ある意味、身軽になった倉田さんは、胡椒の事業を諦め、どこかに就職しようかと考えた。ここで逃げ出さなかったのは、「悪の商人」と倉田さんを罵った医者の友人から叱咤されたからだ。
「高校の時からカンボジアばっかり勉強してたカンボジアバカから、カンボジアをとったらただのバカだろ。30も超えたバカが日本に帰ってきても仕事なんかねえよ。どうせバカになるなら、大バカになればいいじゃん。カンボジアに住んでる日本人のなかで、カンボジアのことを一番よく知ってる日本人になったらいいじゃん」
そう言われて、倉田さんはハッとした。
「日本に帰って単なるバカになるか、カンボジアに残って大バカになるか。大バカのほうが面白そうだな。先が見えてるわけじゃないけど、面白いと思ったほうに進んでいこう」
幸運の女神、現る
カンボジアに残る決断をしてから数カ月後の2001年6月、運命の日が訪れる。冒頭に記したように、秋篠宮夫妻がカンボジアを訪問。歓迎パーティーで言葉を交わした秋篠宮殿下にお土産として胡椒を届け、礼状をもらったことで、「胡椒をお土産として売ってみよう!」と閃いた。
手始めに、倉田さんは日本人旅行者のガイドをしながら「お土産に胡椒はいかがですか?」と営業を始めた。ところが、まったく売れない。みな、「え、なんでカンボジアで胡椒?」とピンとこない様子だった。
お土産もダメか……と絶望しかけた2002年に出会ったのが、由紀さん。日本のボランティア団体のツアーガイドをした時の、参加者のひとりだった。由紀さんは、幸運の女神だった。
ふたりは意気投合し、翌年に結婚。カンボジアに移住した由紀さんは、プノンペンにあるJICA(国際協力機構)の事務所でアルバイトを始めた。由紀さんの給料で生活が安定したこともあり、ふたりは思い切ってプノンペンに胡椒専門店を開いた。
「KURATA PEPPER(クラタペッパー)」の誕生
この時、それまで特に名前のなかった胡椒に、由紀さんが「KURATA PEPPER(クラタペッパー)」と命名。同じタイミングで、胡椒のパッケージ、お店の看板やロゴ、すべてを由紀さんが描いたものに統一した。由紀さんは専門の勉強をしたことはないというが、その絵やデザインはかわいらしく、インパクトがある。