コミュニケーション能力が問われる時代のつらさ

ぼくも、ちゃんとした人間の女の子を好きになったことがある。

あのときほどイケメンを羨ましく思ったことはない。ぼくは残念ながら哲学者のような風貌どころか、典型的なちびでぶコミュ障だったので、クリスマスもバレンタインもすべて他人事か絵空事のように思っていたし、それでまったく構わなかったのだが、あの一瞬だけは自分がまともな外見や性格を持つ人間だったらなあと、切に思ったのである。

自閉傾向の子といじめは、たぶんとても関係が深い。

というのは、現在の学校における児童・生徒の序列は、おそらくコミュニケーション能力によって決まるからだ。現代ほどコミュニケーション能力が求められる時代は、過去になかっただろう。ものすごくざっくりした言い方だが、いわゆる西側先進国の社会は戦後、「大きな物語」を持つ社会からポストモダン社会へと移行した。

大きな物語的な社会は、価値観のレンジが狭い。たとえばかつては、結婚はする、子どもを何人か持つ、マイホームに住まう、55歳まで働く、といったことは所与の条件で、議論するまでもない正義だった。

そのレンジの中で、子どもは男の子がいい・女の子がいい、あるいはマイホームは一戸建てがいい・マンションがいいといった「個性」が許されていた。

そこに反発する人ですら、「子どもを持つのが当たり前」として、その前提に逆らう自分という形でアイデンティティを確立していた。大枠の正義はとっても強固でゆるがなかった。

多様性の時代になってもコミュ障は生きづらい

時代が下って、これがポストモダン的な社会へと移行した。個の尊重や思想信条の多様化が特徴だが、一言で表すなら価値観がばらけた。結婚はしてもしなくてもかまわないし、子どもを持つかどうかもわからない、必ずしも異性を愛さず、なんなら無体物を愛してもいい。

お金を稼ぐ人や権威ある人が偉いわけではない。どちらの社会にも一長一短はあると思う。大きな物語的な社会はとても息苦しい(やたらとお見合いを持ち込んでくる親戚や、妙に人の家の中を詮索したがるご近所さんを思い浮かべて欲しい)、しかし拘束がきついからこその安心感や連帯感はある。

ポストモダン的な社会は自分の好みに応じて、自由にマイペースで生きることができる。でも自己責任という言葉に代表されるように、自由は代償として孤独や責任を求める。

個人的には後者のほうが好きだ。ポストモダン的な社会の風通しを知ってしまうと、前者には戻れない。前者に対してノスタルジーを感じる人も、実際に戻れと言われたら躊躇ちゅうちょするのではないだろうか。そもそも四六時中コンピュータをいじくり回して夜も寝ないオタクのような類型の人間は、ポストモダン的な社会でないと発生しにくいのだ。

では、現在の世の中でオタクは万々歳かというと、そうでもない。自閉傾向の子にとってもそうである。自閉傾向の子など、ポストモダン的な社会にとても向いていそうだ。「みんなちがって、みんないい」の社会なのだから、生きていく場所を見つけやすそうである。

理想としてはそうなのだが、現実はそうはなっていない。コミュニケーションの問題がつきまとうからだ。前者の社会から後者の社会へ変遷して、何が一番変わったかといえば、コミュニケーションコストの高騰に尽きる。