「ドラえもん」のような人間と対等なAIをどう作ればいいのか

【三宅】義務と責任の話は極めてヨーロッパ的で、理路整然とした正しい議論だとは思います。一方で自分は、そういった社会的な問題を考える前提として、人工知能が明確に人間から区別されることに対して、そういうものを曖昧にしたい、つまり生物と非生物の境界をなるべく柔らかくしたいという考えをしています。

僕のところにもよく相談が来られるのですが、今、いろいろな企業がAIを作ろうとして悩んでいるのは、マーケティングをすると家族みたいなAI、仲間としてのAIがアイデアとして上がってくるけど、そういうAIをどうやって作ればいいのかというところです。

暗黙のうちに仮定されてきたことですが、普通、ここでいうのはアカデミックな伝統の上では、という意味ですが、人工知能はそんな作り方はしないんですね。たいてい人間と人工知能、上下関係の下でエージェントとして作ります。「ドラえもん」みたいな人間と対等な仲間としてのAIという方向の研究は伝統的にとても少なかったのです。

2016年6月18日、六本木ヒルズでドラえもんのショー
写真=iStock.com/The_World_Apprentice
※写真はイメージです

AIとしては稚拙でも、人間は恋人や家族以上の情を持てる

その中で今うまくできているのは、「場を設定して動かす」という形です。要するに自律型人工知能とか汎用人工知能ができていないので、結局、場を設定しないことには人工知能は動かない。このプレイグラウンドの中だけで人間と戯れてくださいとか、この店舗の中だけでタスクを行ってくださいとか、うまく場を設定すれば動かせます。

【江間】使う場面や制約をうまく利用すれば、たとえ稚拙なAIでも、恋人や家族以上の情を持てるのが、人間の想像力のすごさだとも思います。AIの技術や表現で足りない部分は、想像力で人間が補完している。そこには依存や中毒といった問題も垣間見えています。

依存といえばもう一つ、人間はすでに記憶や思考能力をネットや外部端末に依存したサイボーグとなっています。文章を紙で書くこともほとんどなくなった。人との関係性や購入するものもSNSのアルゴリズムに強く影響されている。記録だけではなくて思考も機械に預けているわけですよね。そうなるとAIは他者というより、自己が拡張したものとして扱うという方向性もある。

【三宅】いま、起こっていることもそうです。インターネットが自分の一部になっているから、みんなインターネット上で争い始めるわけですよね。今、人間同士が生身で接していることでさまざまな問題が起こっていますが、その間に人工知能が入っていくことによってギスギスした人間社会を変えていくかもしれないと、楽観的に捉えています。

つまり、自分の分身みたいな人工知能がいて、相手も分身を持っていて、人間同士の関係が間接的なものになれば、ネット上の争いはなくなり、平和が訪れる。そういう社会の形もあるのではないかなと考えます。