「モンゴル人は殺しても金さえ払えばいい」
蓄積されていたモンゴル人の不満がその次に爆発したのは、2011年春のことである。この年の5月11日の朝、酷い沙嵐に襲われていたシリーンゴル草原の西ウジムチン旗の草原で事件は起きた。
モンゴル人の遊牧民たちは、炭鉱開発にやってきた中国人のトラック隊を阻止しようとしていた。大面積の炭鉱が発見されたことで、草原は破壊され、汚水が流されたところで、家畜は中毒死し、人間も飲み水に困っていた。
石炭を運ぶ中国人のトラックは、草原を縦横に走り回り、轍の跡はそのまま沙漠になる。中国人は、車が走っただけで環境が破壊されるとは、認めようとしないが、モンゴル人は当時、すでに草原の劣化に直面していた。
私の故郷オルドスでは、1946年春に国民政府軍と共産党軍が激戦を繰り広げた際に、双方とも数万人の軍を並べた。その数万人もの軍隊が歩き、陣地を構えた草原には、1990年代まで戦車の轍の跡が残っていた。轍の跡には草は一本も育たない。それくらい、年間降水量がたったの数100ミリの地域では、車両の走行は環境破壊になる。
モンゴル人たちがトラックを止めようとした際に、中国人たちは故意にリーダーのメルゲンという若者を轢き殺した。「モンゴル人を殺しても、金さえ払えばいい」との暴言を吐いた。
炭鉱開発はウジムチン旗だけでなく、シリーンゴル草原全体の問題であった。私は2006年夏に両親と共にシリーンゴル草原を旅したが、あまりにも沙漠化が進んだ事実を見て、父は悲しみに暮れていた。
中華思想によって行われるモンゴル人差別
父が1940年代に騎馬兵としてこの地に駐屯していた頃、仔ウシと仔ウマの背中が見えないくらい、平均して1メートル50センチ以上もの高い草の海が広がっていたそうだ。それが、中華人民共和国になり、中国人の入植と農耕地開拓でほとんどが沙漠になってしまったのである。
モンゴル人知識人たちは1950年代初期から、両民族の棲み分けを提唱していた。中国人は河川のある地域で農耕を営み、モンゴル人は草原地帯で遊牧する、という満洲国時代の政策である。
しかし、そうした提案は「民族分裂的」だとか、「偉大な中国人を敵視している」とかの罪が冠されて批判されたし、提案者も1958年の「反右派闘争」期に粛清された。中国政府による環境破壊と人口の面での逆転現象は、その後もずっと続いた。
中国人の横行ぶりはシリーンゴル盟だけのことではなかった。中国人は、自分が字も読めなくても、モンゴル語とチベット語、それに日本語やロシア語などを自由に操るモンゴル人を「野蛮人」、「草地の韃子(ダーツ)」と呼んで差別する。
ウラーンフーは1950年代に、中国人による差別を以下のように戒めたことがある。
「フフホト市では幼稚園の中国人児童まで、モンゴル人は立ち遅れている、と話して差別している。中国人の偏見はいったい、どこから来ているのか」。ウラーンフーはこのように激怒したことがある。
自治区の最高指導者が冷静に諭さとしても、一般のモンゴル人が抗議しても、中国人からの差別は変わらなかった。彼らの胸の中から、自分たちが一番優れた人種で、その他の民族はすべて劣っている、という中華思想が消えようとしない。