先住民以上の権利を中国人に与えた政府

文化大革命中に形成されたモンゴル人と中国人すなわち漢人との相互不信は、その後も消えずに、ずっと両民族の対立の火種となった。ここで、事例をいくつか挙げよう。

事件は1981年に起きた。

文化大革命が終息してからも、中国政府は大量虐殺を指揮した人民解放軍の将校たちや、党政府の中国人幹部たちを誰一人処分しようとしなかった。ひたすら「民族間の団結」を呼びかけて、問題を先送りしていた。

こうしたやり方に不満を抱いたモンゴル人大学生たちは1980年冬に署名運動を開始し、2カ月後には6万人以上の署名を集めて北京に提出したものの、完全に無視された。

翌年の夏、自治区の中国人党書記で、周慧から党中央に新しい提案が出された。200万人のモンゴル人は重要な存在であるかもしれないが、それ以上に入植した1600万人に達する中国人すなわち漢人に対しても優遇政策が必要だとする内容であった。この提案から読み取れるのは、入植者が先住民の8倍以上になったことと、入植者は先住民以上の権利を確保しようとした事実である。

文化大革命中に失脚し、その後は部分的に復活が許されていた内モンゴル自治区の指導者ウラーンフーは、周慧の提案の内容を自治区にリークした。彼は「復活」しても、北京に抑留されたままであった。失脚した悲劇の政治家からの情報に接したモンゴル人大学生たちは再び大規模な抗議活動を実施した。

「我々には世界最強の人民解放軍がいる」

モンゴル人の不満は、単に入植者に対する優遇措置ではなく、文化大革命中のジェノサイドに原因があった。それは、中国人入植者がモンゴル人虐殺の急先鋒を担っていた事実への不満だった。政府は虐殺を実施した入植者を処罰せずに、かえって彼らをモンゴル人の草原に定住させようとしたことに不満があった。

当時の筆者はオルドスの高校2年生であったが、首府フフホト市から動員にやってきた大学生たちとデモに参加したものの、その後は校内に閉じ込められて、一歩も出られなかった。

大学生たちは授業をボイコットし、代表団を北京に派遣して陳情した。しかし、北京はまともに対応しようとしなかった。党中央の幹部は、内モンゴルからの学生たちに以下のように言い放った。

「お前らモンゴル人だけでなく、チベット人やウイグル人と一緒になって騒いでも怖くない。我々には世界最強の人民解放軍がいるからだ」

北京天安門国旗警備隊が行進
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その後、冬の11月19日に学生たちは教室に戻った。学生たちを背後で支えていたモンゴル人幹部たち、それも文化大革命期の大量虐殺を辛うじて生き延びた人たちは、12月に一人残らず粛清された。運動に参加した学生たちは最も辺鄙な地域へ追放され、死ぬまで公職に付けない処罰が下された。

リーダーたちの中の何人かはその後、ドイツと日本に亡命して、今日に至る。彼らは2020年夏から秋にかけて勃発したモンゴル語禁止政策に抗議する運動にも関与している。

モンゴル人たちが1974年と1981年に大規模な抵抗運動を実施していた事実は、国際社会に知られなかった。中国政府による徹底した情報封鎖が功を奏したからである。また、当時はチベット人やウイグル人の動向も海外に伝わらなかった。その後、ウイグル人の一部は当時、すでに武装闘争を展開していた事実が判明する。ウイグル人の抵抗には、ソ連の支援も指摘されている。