控え目は「美徳」というより「欠点」
元来、控えめなのが日本人の特徴で、過度な自慢話は恥ずかしいというのが国民の常識。ただ、自分自身が控えめだと、他人の自画自賛に気が付きにくい。それどころか、聞かされた話を丸ごと信じて感心したりする。こうなると控えめも、美点というより欠点に近い。
片や、世界の多くの国民は、他人の言うことをそのまま信じたりはしない。競合相手の乏しかったのどかな国(日本?)は別として、少なくとも隣国とせめぎ合い、侵略したり、されたりという時間を生きてきた国々では、簡単に人を信じたら、妻や娘をさらわれたり、命を失ったりする危険があった。そして、そのDNAは簡単には消えないらしく、皆、今でもかなりうたぐり深い。実は、ヨーロッパのほぼすべての国がこのカテゴリーに入る。
身近な例で言えば、日本の銀行でカードを作るとき、暗証番号を用紙に書けと言われるが、ドイツ人はそれを知るとビックリ仰天する。銀行に悪い人が1人もいないなどということを、彼らは想定していない。
「既成事実を都合よくねじ曲げる」のは国際社会の日常
ドイツでは、暗証番号はコンピューターが勝手に考えた数列で、誰の目にも触れないまま自動的に印刷され、外からは絶対に見ることのできない封筒に自動封印されて、カードとは別に送られてくる。だから、暗証番号を忘れてしまえば、(ハッカーなどがいない限り)世界中で誰も知らないため、新しいカードを作ってもらうしかなくなる。
当然ながら学校教育でも、良きにつけ、悪きにつけ、「疑え!」ということを子供に教え込む。その背景には、「皆でヒトラーに騙されたから」というトラウマも潜むらしいが、これは少々怪しい。
ドイツ人は「皆でヒトラーに騙された」のではなく、「皆でヒトラーを信じた」のではないか。ただ、今になっては、それでは決まりが悪いので、騙されたことになっている。そして、その件に関してはなぜか誰も疑わず、皆で信じる。
そう聞くと、日本人なら「それはご都合主義ではないか」と考える。しかし、実際には、既成事実を自分たちに都合よくねじ曲げるということも、世界の国々ではかなり日常的に行われている。その際、つじつまを合わせるために他の国を批判することもまれではない。日本は、しばしば不当に批判されていると私は思うが、よりによって、日本人はそれさえそのまま信じてしまう。