アメリカの子どもは、とにかくよくしゃべる
『クマくんのやくそく』は、空を飛びたいクマくんと、大きくなりたい小鳥が、おたがいの願い事をかなえるために工夫したり努力したりする、という筋なのですが、子どもにとってはなかなかややこしい話が出てきます。
たとえば、小鳥の「大きくなりたい」という願い事をかなえるために、クマくんは小さなカボチャを買ってきます。カボチャの表面に小鳥の絵を彫ると、カボチャが成長するにしたがって小鳥の絵も大きくなっていきます。クマくんは、こうやって小鳥を大きくしてあげようとするわけです。
一方、小鳥はというと、「空を飛びたい」というクマくんの願い事をかなえるために、凧を使うことを思いつきます。凧にクマくんの絵を描いて飛ばせば、クマくんが空を飛んだことになるだろうというわけです。
こういった理屈は、子どもにはなかなか理解が難しいと思います。
どうして、カボチャが大きくなると小鳥が大きくなるのか? どうして、凧が空を飛んだら、クマくんが空を飛んだことになるのか? 疑問に感じるのが普通です。
これは、日本の子どもであろうとアメリカの子どもであろうと変わらないはずです。
けれども、読み聞かせをされているときの日米の子どもの反応は、あまりにも違うことに驚かされました。
アメリカの子どもは、とにかくよくしゃべります。
日本の子どもはお行儀よく耳を傾けているだけ
たとえば、前述のように、子どもにとってわかりにくいことがあれば「どうしてそうなるの?」と読み手である親に質問します。
「どうしてカボチャが大きくなると小鳥が大きくなるの?」
「どうして凧が空を飛んだら、クマくんが空を飛んだことになるの?」
子どもが質問すれば、それに応答する親の発話数も当然、多くなります。アメリカの親子の読み聞かせは、とにかく親子間のやりとりを盛んにするのです。
一方、日本の親子の読み聞かせは、これまで私が調べてきたとおりでした。
理解が難しいであろう『クマくんのやくそく』でも、とくに子どもからの質問が増えるということはありませんでしたし、朗読以外の親の発話も、やはり少ない。
ママ、パパはお話を読んでいく。子どもは静かに聞く、という読み聞かせだったのです。
日米の読み聞かせには、このような明らかな違いがありました。
うるさいくらいにしゃべりながら読み聞かせを受けるアメリカの子どもと、読み聞かせの最中は静かにお行儀よく耳を傾けている日本の子ども。
その違いが、私のなかで、日本の学校の静かな授業と、アメリカで出合った、常に自分なりの思考、発言を求められる教育とのギャップに重なりました。
絵本の読み聞かせ方の違いは、両国の教育のあり方の違いにつながっている、という視点が生まれたのです。