「あるべき姿」という欺瞞

あるべき姿でない、というだけで、いかがなものか、といつでも言いたがっている正義中毒者たちにとっては、いかにもおあつらえむきのおいしい獲物になってしまう。格好の娯楽の対象になってしまうわけだ。

誰かが何かをやらかすことを、いつも心待ちにしていて、いったんそういう人が出てくると、2~3カ月はそのネタを心ゆくまで愉しもうとする。

あなた方はもしや、アマゾンの飢えた肉食魚なのではあるまいか。

東急プラザの鏡の入り口=2019年1月25日
写真=iStock.com/Torjrtrx
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私は、ポジティブ心理学というものが嫌いだ。好き嫌いで学問を評価すべきでないことは承知しているが、人間のあるべき姿を理想的に描き過ぎているように思う。事実を観察する前に臆断すべきではない。

また、ポジティブであることを必要以上に強要されてしまう感じも苦手だ。人間が自然なネガティブさを持っていることを許さない、というような、どこか禍々しい明るさに、私はむしろ胡散臭さを感じてしまう。

思考停止しやすい人々の生きる国

こうした「正しい」パラダイムの中では、常に正しい選択肢を選ばなければならない。誤った選択肢を一度でも選べば、激しい攻撃にさらされてしまう。冷静な見方ができる人は、残念ながら少ない。

中野信子『ペルソナ』(講談社現代新書)
中野信子『ペルソナ』(講談社現代新書)

特に私たち日本人は他国で生まれ育った人に比べて、定時性の中で生きなければならないという環境圧力に対して敏感であり、きちんとしていなければならない、という呪いをかけられながら生きている。

ルールに従うことは、選択の自由を放棄していることと同じだともいえる。ルールというのは、便利な側面もあるが、むやみに濫用すれば、人々は思考停止させられてしまう。いかなる返答をするのも自由、ときれいごとでは言われながら、やはりテンプレートに従い、社会の理解の枠組みに合わせて答えなければならない。

思考停止しやすい人々の生きる国は、どんな形をしているか。メディアに出るということが、その観察を可能にしてくれる。カメラの向こう側に、巨大な実験室があるようなものだ。人々の反応をレンズ越しに見られるのは、端的に言って面白い。

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