暁闇に立つ
一本の孤峭な樹
を描きました。
人生への きびしい覚悟
としたかったのです。
昭和三十年十一月十四日
定一

私に対するメッセージであると同時に、義兄の覚悟でした。この翌年、『ペルシャの幻術師』が講談倶楽部賞を受け、初めて司馬遼太郎の名が世に出る。作家の道を選ぶぞ、執筆に専念するぞという覚悟だったのでしょう。

司馬遼太郎が作家の道を歩むきっかけの一つに、戦争体験や新聞記者の時代があったと思います。産業経済新聞(現・産経新聞)京都支局時代は、京都にしかない、宗教の記者クラブと大学の記者クラブの2つを担当していました。

大学関連では、ちょうど湯川秀樹博士がノーベル賞をとった時代ですが、その湯川秀樹をはじめ、貝塚茂樹、桑原武夫、小川環樹ら京都学派の先生方と取材を通して話し合っていました。年齢はみなさん、司馬遼太郎よりかなり上です。ところが不思議なことに、その先生方からは同世代の仲間というようなイメージを持たれていた節があり、後年ずっと親交が続く。先生方と語り合ったことは、司馬遼太郎の思考の中に、重要な資料として蓄積されていったことでしょう。

一方、宗教の記者クラブでは、宗教を通して歴史を見る、宗教を通して日本の思想の変遷をたどってみるといった経験をしたようです。この2つの記者クラブに所属したことは、その後作家として活動するうえで、大きな意味を持ったのではないかと思います。

ただ、就職を控えた学生だった私には「新聞記者時代は昼寝ばっかりしていた」と言います。しかも司馬遼太郎の話によると、新聞記者というものがかなり楽しそうなのです。ぐうたら人間の私はこれを信じて新聞記者になり、司馬遼太郎がその20年前に勤めていた京都支局に配属されもしましたが、あまりの忙しさに昼寝どころではありませんでした。

司馬遼太郎が新聞記者だった頃は紙が貴重な時代で、そんなにページ数も多くなかった。一方、記者はたくさんいたので比較的余裕があったのかもしれません。ただ、記者クラブの手伝いをされた女性によりますと、「そんな昼寝をしてたと言ったら、司馬さんがかわいそうやわ。いつも黒いカバンに本をいっぱい詰めて出かけてました」と言うのです。おそらく、京都の歴史的な建造物の中で読書に明け暮れていたのでしょう。

(構成=小澤啓司 撮影=立木義浩/平地 勲)