地方で、高卒では正社員にもなれなかった

11歳でイギリスへ留学。寮生活を始めたのは、シドマスというロンドンから車で3時間ほど離れた、田舎町。そこで最初の「多様性」に触れたという。「イギリス人が8割で、残りはドイツ人や香港の学生。多国籍の学生たちが、2段ベッドで共同生活していました」

イギリスでは高校入学の時点で、どんな分野を専攻するか決める。吉田さんが選んだのは、応用数学、物理、化学、そして製品デザイン学だった。「パソコンに関わることが好きで、理系科目しか得意じゃなかったんです。勉強一筋で、がり勉でした」。大学もコンピュータ科学の名門インペリアル・カレッジ・ロンドンと、ロンドン大学に合格した。

こう見ると、18歳までのキャリアは華やかだ。「高卒、マクドナルドのバイト」に、なかなかつながらない。しかし2009年夏、吉田さんに試練が訪れる。母親が病で倒れ、帰国を余儀なくされるのだ。ビザが取得できず、実家の経済的な事情から、吉田さんは進学を諦めざるをえなくなる。

「奨学金制度をひたすら調べました。でも、イギリスの制度では僕は外国人として扱われてしまう。反対に、日本の学校の制度では僕は日本人として扱われて、イギリスの学歴が正当には考慮されなかったんです。日本の帰国子女枠にも当てはまったんですけど、日本語が不得手だったせいで、試験が受けられませんでした」

マクドナルドでアルバイトをしていた頃。ここでもダイバーシティの大切さを学んだ。
マクドナルドでアルバイトをしていた頃。ここでもダイバーシティの大切さを学んだ。

家計を支えるために、吉田さんは実家のあった兵庫・明石で、職探しを始める。時期悪く、帰国した09年はリーマンショックによる世界的な不景気の最中だった。そうして、「そこでしか働けなかった」家から歩いて通えるマクドナルドで、アルバイトを始める。時給は約800円。そこでのダイバーシティが、いまでは財産になったと吉田さんは語る。

「高校生、大学生、フリーター、主婦。マクドナルドでは価値観の違う人たちに受け入れてもらい、そこで『コミュニティ』の大切さを知りました」

ひたむきに働いた吉田さんは、7カ月後にスウィングマネジャー(バイトマネジャー)になっていた。傍ら、IT系の企業で働く夢を追い求め、就職活動も継続していた。

しかし、ただでさえ仕事の少ない不況下の地方都市で、高卒で日本語が不得手な吉田さんは、書類選考すら通過できない。ようやく10年夏、兵庫県内の、社員数120人ほどのマット販売会社で、情報システム部の派遣社員として働き始める。

「最初はヘルプデスクで、『電源が入らない』などの相談に応えていました」