東日本大震災は岩手、宮城、福島、茨城などの人々の生活や経済に、甚大な被害をもたらしただけではなく、日本経済全体をも痛撃した。東北の電子部品の生産拠点が次々に破壊され、自動車や電機、精密機械などの生産に欠かせないサプライチェーンが寸断されて、影響は全世界へと波及した。
止まったのは、モノの流れだけではない。ヒトの動きにも、大きなブレーキがかかった。各地の観光地は、大型連休を迎えても、例年の客足に比べ、大きな落ち込みをみせた。海外からの来日者数も減った。背景に、福島原発の大事故に対する強い懸念がある。むしろヒトの流れのほうが、連休前から復旧の兆しをみせ始めたモノの流れよりも、事態は深刻かもしれない。
当然、航空会社も打撃を受けた。大震災直後から国内外への旅客数は2~3割も減り、稼ぎ時の連休中も空席が目立った。前身の日本ヘリコプター輸送の設立以来59年目にして、ついに日本航空の国内・国際線の総旅客数を抜き去り、日本一の航空会社として意気上がる全日空(ANA)も、この危機と無縁ではない。
ただ、ANAには無類の「危機に強い男」がいる。早期の立て直しに陣頭指揮を執る伊東信一郎社長の後ろに、その男がいる。大橋洋治。11代目の社長で、現会長だ。そして、さらなる飛躍のための「最強の武器」も、この夏に手に入る。大橋が導入を決めた最新鋭機「B787」だ。「危機に強い男」と「強力な武器」――どんな浮揚力をみせるか、注目される。
大橋は、社長時代の2004年4月の取締役会で、B787の導入を決めた。社長に就任したばかりの01年、9月に米国で同時多発テロ「9.11」が起き、11月には日航と日本エアシステムの経営統合が発表された。2つの出来事に挟み撃ちされるように、ANAの業績は低迷し、03年3月期、ANAの連結決算は営業利益、最終利益とも赤字となった。この危機を、路線の選択と集中、営業やマーケティング部隊の再編、社内にはびこる官僚主義の打破などで、克服する。
危機は、大橋にとって、最も闘志が湧いてくるときのようだ。第二次大戦の末期、家族と満州に住み、急に参戦してきたソ連の軍隊に追われて500キロの逃避行を経験した。以来、「今日より明日は、もっといいはずだ」とのプラス思考と危機克服への自信が、体の隅々まで染み込んだのではないか。
1997年春、予想外の出来事で、会社は危機に陥った。「航空業界のドン」と言われた若狭得治名誉会長、最後の国鉄総裁となった杉浦喬也会長という元運輸次官コンビと、会社の構造改革を進めた普勝清治社長が役員人事を巡って対立。最後は差し違える形で3人が退任し、全社が揺れた。
このとき、ニューヨーク勤務から急きょ呼び戻され、混乱収拾にあたった野村吉三郎・新社長を支えたのが大橋だ。常務・人事勤労本部長となり、無配に転落する窮状下で労組と交渉を重ねて、社員のベアを原則ゼロとするなど大幅なコスト削減を実現する。99年には副社長・販売本部長に就き、規制緩和の波を生かし、「早割」「超割」などの割引運賃を採用。翌2000年度に、過去最高の利益を達成した。(文中敬称略)
※すべて雑誌掲載当時