様々な治療院で受診してきた経緯を聞き、仁賀は1つだけ注文をつけた。

「ここで治療をするなら、もうほかへは行かずここでのリハビリに集中してください。そうでなければ僕はキミのことを治せない」

鈴木は覚悟を決め、仁賀が命名した「グロインペイン症候群」を克服するためのリハビリが始まった。

「僕は滅多にこういうことは言わないんです。でも信じてやり抜かなければ復帰できないと思いました」

2人の選手を救えなかった苦い経験

信頼関係の構築は仁賀の治療方針の根幹を成す。その原点は、チームドクターを務めていた浦和レッズで、2人の選手を救えなかった苦い経験にある。Jリーグが創設され、激闘が続くと「恥骨結合炎」という診断名で離脱する選手が相次いだ。レッズでも2人の選手が離脱。当時の日本は安静治療が主流だったが、欧州なら手術で治るという情報が入り、即座に両選手はドイツへ飛んだ。

信頼を得られなかった仁賀はチームドクターを辞することも考えた。だが選手たちが遠い国で治療を受けることが本当に幸せなのか疑問を覚え翻意する。近くの医師が親身になって治療に当たる。そんな環境をつくるために、本来ヒザの診断・手術が専門の仁賀が、グロインペイン症候群の治療に取り組むことになった。

「ドイツと同じ手術を100例以上行いました。しかし全員が良くなったわけではない。またこの手術に限らず、外国人と日本人では痛みの感受性が異なり術後の回復に大きな違いがあることもわかってきました。そして良くならなかった選手を治す工夫をしていく過程で、リハビリで改善できる、さらにはリハビリで手術を回避できることもわかってきたんです。

そのため、以降、私はグロインペイン症候群を1人も手術しないで治療しています。手術の最大の欠点は予防には役立たないことです。グロインペインだけではなくケガには予防が何よりも大切。レッズではリハビリを予防に取り入れてから、離脱者が3分の1に減り、離脱しても早期に復帰できるようになりました」

結局、鈴木は仁賀の指導下でリハビリに励み、2年9カ月ぶりに復帰する。最後の砦を信じ切ったことで、遂に道は開けた。そして19年9月の世界陸上では50キロ競歩に挑み、スタートから首位を譲らずに金メダルを獲得。早々と東京五輪への出場を決めた。

「鈴木選手は、今でもウチでリハビリを受けています。私は選手が復帰しても安心することない。ケガとの闘い、予防への取り組みは続いていくんです」