子供の頃の夢はプロ野球選手

長州力こと吉田光雄は1951年に山口県徳山市(現・周南市)で生まれた。子供の頃の夢はプロ野球選手になることだった。小学校高学年のとき、町内会で作った野球チームで徳山市の大会に参加、2年連続で優勝している。ポジションはキャッチャーだった。

ただ、同時期に柔道も始めている。そして柔道で才能を認められ、中学では柔道部に入ることになった。その運動能力の高さを買われて桜ヶ丘高校レスリング部から誘いを受けることになった。

桜ヶ丘高校3年生のとき、インターハイ準優勝、国体で優勝という成績を残している。そして特待生として専修大学に進んだ。在学中に全日本学生レスリング選手権で優勝、72年のミュンヘンオリンピックにも出場している。そして大学卒業後の74年、新日本プロレスに入った。アントニオ猪木が新日本プロレスを旗揚げしたのは72年のことだ。ジャイアント馬場の全日本プロレスと対抗するために、長州のオリンピックレスラーという称号を強く欲していたのだ。

将来を嘱望されていた長州は入団直後の8月から国外修行に出かけている。ドイツ、アメリカ、カナダを連戦して帰国。しかし、レスラーとして人気が出なかった。

アントニオ猪木は観客を“捕まえる”

プロレスは肉体を酷使するという意味では、スポーツの極致である。ただし、厳密な力量の差を測るという意味では競技ではない。いくら躯を鍛えようと、優れた技を連発しようが、観客を引き込むことができなければ失敗である。だから、難しい。

真説・長州力』で書いたように、長州はくすぶっていた時期について、客を捕まえることができなかったのだと話した。

田崎 健太『真説・長州力』(集英社インターナショナル)

「みんなは“乗せる”、と言うかもしれない。でもぼくは“捕まえる”。(対戦)相手はいますし、それに合わせてコンディションを作って集中をしますけれど、実際に闘う相手は客ですね。客を捕まえることができない選手は、そんなに長くできないですね」

長州はセコンドについて、リングのそばからアントニオ猪木の動きに眼を凝らした。猪木は指先の動き一つで、観客を熱狂させることができた。まずはリングサイドの客を“捕まえる”。そうすればさざ波のように広がって行くというのだ。

「大きな石だとドボーンって早く波が終わってしまう。ポーンと投げて輪を静かに大きくしていく、そんなような感覚ですね。それは大きな会場でも小さな会場でも関係ないんですよ。その点で猪木さんは天才でしたね。完全に(観客に対する)指揮者でした」

頭で理解することと、躯で表現することは違う。悩んでいた長州に無理矢理、火を付けたのはこの猪木だった。