現場と社会を結ぶ「パイプ」不在の状況

この状況は、情報を発信する人たちの自覚が著しく欠けていたためにもたらされた悲劇だったと思います。もちろん私たち演奏の現場にいる人間の責任も大きい。しかし立ち止まることもできず、毎日ひたすら走り続けている演奏の現場を高い見識を持って社会と結びつけてくれるパイプの役割を果たすのが、評論やジャーナリズムのはずです。この数十年間、日本ではその機能が十分に働いていなかったのではないかと思います。

評論家やジャーナリストに、自分もクラシック音楽界の一翼を担っているのだという大きな責任感や使命感を持ち、自分自身の実力と置かれている立場を理解している人がどれだけいたでしょうか。社会をより一層豊かなものにしていくために活動しているのだという意識を持つ人が、少なくなってしまったのではないかと思います。

「背中を追いかけたくなる大人」が減っている

人が誰かの影響を受け、憧れて上を目指そうとするには、その周囲に本当に魅力的な先人がいることが大切だと思います。それはたとえば、身近なところでいえば父親や母親、学校や習い事で出会う先生など、さまざまなケースが考えられるでしょう。

教育によってそういった立派な人物が増える世の中になれば、自然とその波及効果が出てくるでしょう。理想論、教養主義と言われるかもしれませんが、やはり教養豊かで魅力にあふれた大人の存在は、社会や若い世代を変えると思います。

強い哲学を持ち、日々がむしゃらに勉強した明治生まれの世代の人たちが社会を引っ張ったころのような雰囲気が、もう一度戻ってはこないものか。これは音楽界に限らず、政財界を含め多くの分野において感じることです。

戦後の日本の音楽界を形づくった、戦前、戦中生まれの世代の人たちというのは、限られた環境のなかでも音楽のすばらしさに魅せられ、ただひたすら、一心不乱にその魅力を世の中に伝えようとしていました。

クラシック音楽黎明期のレベルでは、技術的、能力的にできないことが多かったかもしれません。しかし、この音楽の魅力はここにあるのだ、大切なポイントはこれだということをしっかりと理解し、それを世の中に伝えるべく、演奏家、教育者、評論家として、確信をもって邁進した人たちが存在しました。

ところが我々の世代になると、恵まれて豊かな時代に育ったがゆえに、何が大事で、核心はどこにあって、それをどう伝えなければならないかをしっかり意識することなく、漫然と音楽の世界に足を踏み入れる人が増えてしまった。音楽にとって一番大切な骨格や土台をきちんと認識できないまま、この世界で活動している人が多くなったように思います。

今の時代、憧れて背中を追いかけたくなるような魅力的な大人が減っているのではないか。これは、自戒を込めて感じていることです。