創設協会のメンバー国を敵に回すことは避けたい

踏まえておくべき形勢事情もあった。最有力国と目されながら前回の第1次投票で脱落した南アフリカがまた必ず名乗りを上げるであろうと、みな予想した。1票にすがる日本として、2票ずつを握る創設協会のメンバー国を敵に回すことは避けたい。

加えて、北半球と南半球とで開催国を順番に決めてきたという、暗黙だが鉄則ともいえるW杯の歩みがあった。11年が南半球のNZであるなら、次の15年は北半球の国の開催で、したがって盟主をもって任じるイングランドになるであろうと容易に予想できた。

名乗りを上げたのは、予想どおりに再起を期す南アフリカ、盟主をもって任ずるイングランド、さらに、イタリア、そして日本。英4地域の間でも、盟主であると主張してきた居丈高なイングランドは、ほかの3国と同床異夢のような関係をつづけてきた。他方、11年W杯の開催を逃した南アフリカは、2票を有す創設協会の支持をとりつけるべく熾烈な戦いを挑んでくるのが明白であった。

オリンピック・パラリンピックもそうであるように、国際大会を主催するには有力な企業スポンサーを数多く味方につけなければならない。国家的なイベントを頻繁に主催していては経済力が保たない。北半球と南半球の限られた国の間だけで4年ごとにパス回しをしつづけることの限界は、創設協会メンバーの間でも語られるようになっていった。やがて、そろそろアジアで、経済大国として発展した日本で開催してもいいのではないかという声が聞かれる。

しかし、日本の招致団としては、また前回11年大会の決戦投票のような展開になることを恐れる声もあった。長く尾を引くような泥沼の票取り合戦になることを、IRBとしても望んではいなかった。そこで、15年、19年の両大会の開催国を同時に決めてはどうかという構想が持ち上がる。英4地域の間で、ときに厄介者扱いをされているイングランド、開催実績のないアジアから挑みつづける日本。やがて、IRB理事国の間で、両国が開催年を決めて共同で立候補すればいいのではないか、という意見が相次ぐようになる。

日本の招致団には、15年大会を勝ちとるべきではないかという強硬論が根強くあった。結局、宗主国をもって任ずるイングランドに先を譲り、日本は19年大会を得ることで協調を図ろうとの意見が大勢を占めるようになる。15年はイングランド、19年は日本とIRBの理事会で決定したのは09年のことである。前年9月に、世界中が経済危機に瀕するリーマン・ショックが起きていた。日本の19年開催を主張しつづけたという森は、「15年では経済が厳しかった。19年に決めてよかったのではないかと思います」と振り返る。