ラグビーは、イギリスを中心に発展したスポーツである。
イギリスは、もともと由緒ある独立した王国が集まって発展してきたという歴史を露骨なほどにラグビーの国際社会で主張し、その地位を保ってきた。イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドという、イギリスを構成する4つの地域がおのおの国としての主権を譲らずに時を重ね、それがために著しく偏った歴史を連ねてきた。
とりわけ、イングランドは、19世紀から、盟主になろうと3つの地域と覇権争いを重ねてきた。4つの地域はまとまりやすい一方、イングランドを敵視して、3カ国でまとまるという傾向もときに見られた。
IRBの発足時のメンバー国である英4地域とオーストラリア、NZ、南アフリカ、フランスを創設協会といい、それぞれがIRBに2名ずつ理事を送り込んでいた。したがって、理事会での投票権も、この8カ国・地域で合わせて16票を有していた。
他方、創設協会以外のカナダ、イタリア、アルゼンチン、そして日本という4カ国に割り当てられている理事の椅子は各国1つであったから、投じられるのも各国1票に限られる。さらに、アジア、北米、南米、欧州、オセアニア、アフリカと、6つの地域協会が各1票を持っていた。これらを合わせると26票。つまり、創設協会だけで過半数を占めてきたのである。
日本ラグビー協会の会長職も降りるつもりでいた
森は、シド・ミラーに対し、ひとしきり己の考えを話し終えると、「私はもうこれで、2度とW杯(の招致活動の場)には来ないでしょう」と宣するように述べ、席を立った。日本ラグビー協会の会長職も降りるつもりでいた。しかし、南アフリカ、NZという強豪国と3カ国で烈しい招致活動を展開し、決選投票へと進んで、わずか2票差で及ばなかったという惜しい結果は、捲土重来を期すべしという機運を少しずつ盛り上げていくことになった。
国内の事務手続きや資料づくり、海外でのロビー活動、幹部たちの交渉の通訳と、1人で何役もこなしてきた徳増は、日本ラグビー協会の職員としての日常に戻りながら、くたびれ果て、放心したような日々を送っていた。
徳増浩司の軌跡を描くとするなら、まさしく楕円のボールがグラウンドを中心に、その内外を縦横に行き交うさまのようである。
サラリーマンだった父の勤務地の都合で、子どものころは転校を繰り返していて、自らの拠り所となるようなものを明確には育めぬまま長じていった。