「アジアのためにもと、一所懸命、招致活動をがんばったのですが、氷漬けになったような重いドアをこじ開けるのは難しかった。申し訳ありません――」
英4地域を中心とした伝統国の保守的なあり方への挑戦について、そのように表現した。
徳増がひとしきり挨拶をして席に着こうとすると、「ちょっと待ってくれ」という声が上がった。ブルネイの代表であった。
「もう1度、挑戦しないか。アジアのために、日本がリーダーになって、もう1度、招致活動をやってくれないか。私たちも応援する――」
同様の発言が相次いだ。徳増は、胸が熱くなってきた。
招致開始から16年夢の祭典の先にあるもの
再起を期し、日本招致団では、次に15年大会の開催をめざす機運が高まっていく。
徳増は、年齢や肩書などで相手を見ることなく、フラットに接する。人づきあいを苦にする様子もない。しかし、海外の要人を相手とするロビー活動となると、並の人づきあいのレベルでは信頼関係を築くことはできない。まず、一面識もないIRB理事国の幹部に名刺を差し出して挨拶をしながら杯を傾け、次に会ったときには「コウジ」とファーストネームで呼ばれるような間柄になれなければ、困難な国際交渉を生き抜くことができるはずはない。
森は、シド・ミラーに正論をぶつけ、日本協会の会長を退くつもりでいた。だが自身の発言内容が伝えられ、広がり、ラグビー界を変えなければならないという声が国内外から上がり始めた。どうやら簡単に会長を辞めることはできないと森は意を決した。
眞下は、長年のつきあいのある海外のレフリー仲間を中心に、自らの愛称とともに「ノビ、ネクスト!」と励まされ、次こそ勝つぞ、と意気に燃えていた。そして、自ら先導してきたジャパンラグビートップリーグへの参加チームを06年に12から14へと増やして、力強い手応えを得ていた。
徳増は、アジアラグビー協会の理事会で各国代表からW杯招致活動への再挑戦を強く勧められ、痛感するところがあった。「私たちは強国ばかりを追いかけて、アジアの仲間を大事にしていなかった」と。
日本のラグビー界は、W杯招致活動にふたたび動きだす。2票の僅差で11年W杯の開催をNZに許す結果となっていたから、めざすのは、その4年後の15年W杯の招致である。