しかし半面、一途に走りすぎることも否めない。友人の仇討ちに助太刀するために脱藩したり、安政元(1854)年には、ペリー艦隊に亡命し海外渡航を図るが、失敗する。その結果、江戸・伝馬町の牢獄に入れられるが、死罪は免れ、長州の萩に送還。野山獄に幽閉され、その後生家で預かりの身となる。

司馬さんは『世に棲む日日』のあとがきで、松陰のことを、もともとは「きらいだった」と書いている。だがこれは、戦前の国家神道による国づくりにおける象徴的人物のひとりと司馬さんが捉えていたからだ。戦後、松陰の文章に接することで、彼を見直したという。

ただ司馬さんは、松陰を思想家と見ていた。彼は思想家を好まない。そのせいか、小説における松陰は書き出しこそ非常に魅力的だが、随所で“おさない”という表現や“甘ったれ”という言い方も見られる。

とりわけ、革命家的色彩の強い高杉晋作が登場してからは、書き手の興味はそちらに移ってしまったという感がある。晋作こそ司馬さんが好んで描くような人物なので、致し方ない面もある。が、松陰について、さらに肉付けされていたら、また違った魅力が発見できたのではないかといささか残念な気もする。

さて、人生の四季では秋というべき野山獄における吉田松陰は、まさに収穫の時期を迎える。彼は、肩書も役職も捨てて、時代の先駆けになろうとしたものの、自分一人では何もできない。世の中を変えるには、仲間をつくっていかなければならないと気づく。

「仁愛ならざれば群する能はず、群する能はざれば物に勝たず、物に勝たざれば養足らず」

大意は「仁愛の人でなければ仲間をつくることができない。仲間をつくれなければ物事に勝つことができない。物事に勝てなければ満足に成長していくことはできない」ということだ。

この言葉を松陰は野山獄での幽閉中に実行していく。上意下達で人を引っ張っていくのではなく、慈しみの心で接したのである。するとまもなく、獄内の雰囲気は一変し、何事にも前向きになり、学問や人生をきわめていこうとする気風が生まれたという。

彼の教育者としての側面を強く感じさせるエピソードだが、この考え方は、免獄後の安政4(1857)年に開校した松下村塾にも受け継がれる。

ここでの松陰はやさしい。

「教授は能はざるも、君等と共に講究せん」。つまり、私は教授などはできないが、君たちとともに勉強していこうとしていたのである。

誰に対しても非常にていねいに接し、ある門弟は「怒ったところは見たことがなかった」と回想している。一人ひとりの身分に関係なく、それぞれの長所を見つけ出し、そこを褒めることで人を伸ばそうとした。

「小人必ず才あり」

卑近な言葉になってしまうが、「どんな人間にも何か取り柄はあるんだ」ということにほかならない。

すなわち松陰は士農工商の枠を取り払った人材登用を心がけていたということだ。たとえば、身分の低い者は「このままではだめだ」ということで努力を重ねるから伸びる。逆に、家格の高い者は、そこに胡座をかいてしまうから人材として成長していかないということを見抜いていた。だからこそ、松陰門下からは、晋作や禁門の変で戦死する久坂玄瑞といった逸材が出た。