人が求めるのはカネだけではない

宗教学的に見ると、ポピュリズムや陰謀論には人間の本来的な欲求が関わっている、と言うことができる。このことを、日頃われわれがよく使っている、ある経済用語の歴史を振り返ることで考えてみよう。

英語に“interest”という言葉がある。これは「利子」「利潤」などという意味と、「興味」「関心」という意味とをもっている。自分がもうかる話には、誰でも興味や関心をもつものだから、この2つの意味がつながっていることは理解できる。

しかし、この言葉にはもう少し深い意味もある。『オックスフォード英語辞典』によると、“interest”の最初の用例は15世紀半ばにさかのぼり、それは「あるものに客観的に関わらしめられていること」(being objectively concerned)という意味であった。つまり「何かに興味をもつ」という認識のあり方ではなく、「その人が対象と関わりをもち、対象に参与する」という存在のあり方を示す言葉なのである。

どのような関わりか。同辞典によると、その内容には「霊的な特権」(spiritual privileges)が含まれる。たとえば17世紀のピューリタン神学者が「神の恵みにインタレストをもつ」と言えば、それは単に神の恵みに興味があって眺めている、という意味でなく、自分という存在がその恵みにあずかる者となる、という意味である。つまり、「インタレスト」は、単に「経済的な利益」だけでなく、個人の「物質的な幸福」を越えた、精神的な参与を含む願望を意味していたのである。

ポピュリズムに浸かる人は「つながり」がほしい

今日のポピュリズムにも、同じような「インタレスト」がある。ポピュリズムに浸かっている人びとは、何を求めているのか。それは、参与である。自分が属する社会の一部として存在することである。彼らは、単に物質的な利害を求めて声をあげているのではない。ポピュリズムが前世紀に中南米や東欧で始まった時にはそうだったかもしれないし、今日でも経済的な関心は重要さを失ってはいない。

だが、今日のポピュリズムをそれだけで理解することはできない。人びとが求めているのは、階級的な利益ではなく、もう少し精神的な利益である。それは、自分の住む社会に有意義に存在することであり、そう認められることである。自分という存在の社会的な意義を確認したいのである。それは、人間としてごく当然の欲求かもしれない。

人は誰でも、金だけでは幸福になれない。人とのつながり、社会とのつながりを通して、自分という存在が、何らかの意味をもち、意義をもっている、ということを確認したいのである。そのために声を上げる。選挙の投票でも、ネット空間でも、これは同じである。