【木村】国家の理想像としてポエミーなものはよくない。その感覚はよくわかります。でもあえて聞きますが、一方で憲法には「人権を尊重しよう」「侵略戦争はいけない」ということも書かれていますよね。人権尊重も平和主義も理想の国家像のひとつではあると思うのです。

「家族を大切にする」とする国家像と、「人権を尊重し、平和を大事にしましょう」とする国家像とは、何が違うのか。そしてなぜ前者を憲法に書いてはいけないのでしょうか。橋下さんは「家族を大切に」と書こうとしている人に、どのように説明しますか。

何をベースラインとして考えるのか

【橋下】確かに、人権尊重は守らなければいけないベースラインだと感じますが、家族尊重との区分けは非常に曖昧ですよね。「『家族を大切にしよう』もベースラインだ」と言い張ることもできます。

あるいは、今の日本国憲法は個人の多様な価値観を認める「価値相対主義」なので家族尊重という価値観を押し付けるべきではない、と言っても、人権尊重だってひとつの価値観でしかないとも言えます。しかし、やはり憲法は個人の価値観をひとつに決めるべきものではないですよね。木村さんはどうやって説明しますか。

【木村】今の憲法は、「個人の価値観は多様であり、なおかつ、そうした人々が共存できる国家でなければならない」とする、近代国家の価値観をベースラインにしています。「家族を大切に」という価値観は、あくまで個人のレベルで決定すべき価値観であり、「多様な価値観の尊重」という近代国家の価値観を壊しかねないという説明になると思います。

ですから「家族を大切に」と憲法に入れたい人を説得するためには、近代国家のベースラインとなる価値観を共有するところから始めないと、議論を止められない気がします。

自民党案「家族を大切にしましょう」の是非

【橋下】うーん。その言い方をしても「近代国家の価値観の捉え方の違いですね」となってしまいませんか? 「人権を大切に」は近代国家の価値観としてOKで、「家族を大切に」は近代国家の価値観としてダメというコンセンサスはとれないんじゃないかな。議論が価値観の違いになってしまったら、もう収拾がつかないと思います。

【木村】では橋下さんなら、どう説明なさいますか。

【橋下】「大きなお世話論」はどうでしょう? 「家族を大切にしましょう」は本人がそう思えば、大切にできますよね。だから憲法に書くことは大きなお世話。でも「人権を大切にしましょう」は、本人がそう思っても、周囲が、特に公権力が人権を大切にしなければ本人の人権は守れなくなってしまいます。