続いて、その後に天下の覇権をにぎり、「西楚の覇王」と名乗った項羽。彼の体制づくりは、現代でたとえれば中小企業のわがまま社長の人事査定そのものだった。

項羽は、秦王朝が滅び、鴻門の会で劉邦を屈服させたあと、天下の割り振りを差配していく。ところが、功績がなくても、自分と親しい者であれば大きな領土を与え、そうでなければ、たいした領土を与えなかったのだ。

これには部下の不満が爆発してしまう。いつの時代も、「公平な負担」「一律の厳しさ」であれば人は我慢もするが、「不公平な処遇」や「エコひいき」には、耐えられない面がある。

この機運に乗じ、叛乱勢力をまとめて天下統一に結びつけたのが劉邦なのだ。

では劉邦の漢は、前二者の失敗に鑑み、どのような体制を敷いたのだろう。

漢の場合、その草創期に政治体制のベースとなったのが「黄老思想」だった。

これは、秦王朝が採用した『韓非子』に代表される法家思想、それに老荘思想の『老子』を融合した、ユニークな政治術になる。

具体的には、法治主義をベースにしつつ、秦のときのように厳格には法律を適用せず、急所だけを押え、あとは自然の流れ、下の活力に任せていく手法だ。現代でいえば、「権限委譲組織」「居心地のよい官僚組織」のようなあり方に近い。

漢は、これによって長く続く体制づくりに成功する。始皇帝の秦も、項羽の楚も、結局、民衆や部下からの不満を買って滅んでしまったが、「任せてくれる」「無理を言わない」という漢の体制は、不満を最小限に抑える効果があったのだ。

目先の勝利に必要なのは、何より実力と戦略だ。しかし、それを維持したければ、周囲から「支持され」「愛されること」も必須となるのだ。