「避難指示が解除されても、浪江町はもう町ではない」

原発事故後、避難指示区域に指定され、住民がいなくなった浪江町で約300頭の牛を飼い続けた男性がいる。吉沢正巳さん(64歳)。政府が人間と一緒に犬や猫の避難を認めたのに対し、牛や豚といった家畜は殺処分を命じたことが許せなかったという。「国は命の選別をした。牛を餓死させてしまった農家は自責の念に駆られて『2度と牛は飼えない』と心に傷を負った」。

(左上)日赤・藤巻さん。「福島だけは時計の針が止まったまま」。(右上)吉沢さんの牛。廃棄されるパイナップルの皮を食べる。(左下)積まれる汚染土壌袋。「受けいれないとここに住めない」。(右下)吉沢さん。「浪江はもう駄目とレッテルを貼られた」。

17年3月末に浪江町の避難指示は解除された。しかし、事故前の町の人口は約2万1500人だったが、18年2月末までに戻ってきたのは2.5%の約500人のみだ。

その理由について吉沢さんは、牧場にある小屋の壁に張られた地図を指差す。事故直後の福島県周辺における放射線量の分布地図だ。色が黄色から赤に濃くなるほど放射線が強い地域だ。当時の浪江町は真っ赤に塗りつぶされており「これは、『ここはもう駄目なんだ』というレッテルなんだ」と憤る。

「浪江の人はこれを見て全国に散らばった。ここに戻るんじゃなくて、第2の新しい人生を根付かせている。そうするしかないんだ」

避難指示が解除されても、浪江町はもう町ではないと吉沢さんは考える。

「ここに戻ってきた人でも、避難していた場所と行ったり来たりみたいな人が多いんだよな。福島県内でもいわき市や郡山市にいけばパチンコ屋もある。やっぱり便利なところに住むんだよ」

浪江町では生鮮食品を揃えているスーパーマーケットはまだ存在しない。医療施設も診療所しかない。

吉沢さんの牧場の敷地内にも除染作業の末に出た汚染土壌の袋の山がシートに覆われ佇んでいる。その光景も「風景に馴染んだもの」だという。「放射能と折り合いを付けるしかない。妥協して、受忍する。帰れる人は高齢者か“復興が仕事”の役場の人。町民はもうよそに根付き、そこで生きようと必死なんだよ。だから役場の復興の話と現実にものすごい乖離がある」。

放射線という目に見えないものだからこそ、吉沢さんにとって彼自身と牛が生きてきた事実が重要なのだろう。

「原発事故後、みんないろいろ考えたと思うが、それもいずれ風化して忘れちゃうんだ。この牧場は、原発時代への逆戻りに対し、原発事故当時の状態をそっくり残して、メモリアルとして伝える場所なんだよ。“邪魔者”の被ばくした牛が生きる場所なんだ」