そんな状況を見かねて、ある人が中村にいった。

「いわきだけから女性を採用しようとするのは、どうしても無理がありますよ。それなら東京から連れてくればいいのではないですか? 東京の女性なら芸能事に関して理解があるでしょうし、抵抗も少ないのではないかと思いますが」

すると、中村は即座に、

「いや、それはいかん。炭鉱人の血を受け継ぎ、炭鉱の空気の中で育ってきた人間が踊ることによって常磐炭礦の精神が生きることになるんだ。よそからダンサーを連れてきて踊らせることなど絶対にあり得ない。そんなことをするくらいなら、最初からやらんほうがいい」

といって否定した。

結果的に、常磐音楽舞踊学院の一期生として入学し、昭和41年1月のセンター開業時にステージに立ったのは18人。自ら志願してきた2人を除く16人が中学校を卒業したばかりの炭鉱の子女であり、中村の思惑どおり、客席まで汗が飛んでくるような彼女たちの熱演は観客たちに感動を与え、大いに受けたという。

震災後、フラガール全員が集まった

開業から45年後、平成23年の東日本大震災で「スパリゾートハワイアンズ」は施設に多大な損害を受け、休業を余儀なくされた。被災直後、当時の社長・斎藤一彦はある決断をする。

「フラガールの全国キャラバンをやろうと思っている。休業中に日本全国を回って、フラガールと、いわき市の元気な姿を、一人でも多くの人に見てもらおう」

震災当時に在籍していたフラガールは、総勢29人を数える。3月11日以降、ハワイアンズが休業となったため自宅待機を余儀なくされていた彼女たちの中には、自宅を津波で流されてしまったため家族と一緒に避難所に身を寄せていた者もいれば、原発事故で自宅が避難区域に指定されたため、福島県外で生活している者もいた。彼女たちもまた、紛れもなく被災者だったのだ。

そんな彼女たちが震災後、初めて顔を合わせたのが4月18日のことだった。まもなく始まるキャラバンに備えて、22日から再開する合同練習を前に今後のことを話し合うため、常磐音楽舞踊学院のレッスン場に集まったのだ。

当時、リーダーとしてメンバーをまとめていたマルヒア由佳理こと加藤由佳理がいう。

「『練習を再開することになったから、来られたら来てね』と全員にメールで連絡を入れました。でも、メンバーはみんな、それぞれがいろいろな事情を抱えていましたから、来たくても来られない子もいるでしょうし、中には、本人は来たくても、ご両親が反対する場合もあるかもしれません。ですから正直なところ、半分の15人が来ればいいかなと思っていました」