そして、従業員は常磐炭礦の元従業員とその家族でまかなった。開業当初のハワイアンセンターでは、父親がホテルのフロントマンで母親が客室係、息子が調理師で娘がフラダンサーという、そんな構図が当たり前のようにあった。

開業当時620人を数えた社員のうち、どうしても外部の力を借りなくてはならなかったのは、レストランの総料理長、フラやフラメンコの先生たちなど専門職のほんの2、3人だけ。それまで劣悪な坑内環境の中、ふんどし一つでツルハシを持って黙々と石炭を掘っていたヤマの男がウクレレを持ったり、スーツを着てフロントに立ったり、あるいは中学を出たばかりのヤマの娘がフラダンサーになったり、レストランのウェイトレスになったりした。

中村豊を囲むフラガール1期生と当時の従業員たち(写真=常磐興産)

そんな中で、会社が人探しに意外と苦労したのが営業マンだった。炭鉱の男たちというのはもともと口数が少なく、過酷な環境の下で、ただひたすら石炭を掘る寡黙な者が多かったからだ。

しかし、視点を変えて探してみれば、身近にまさに適任の男たちがいるではないか。それは、会社側と日々、丁々発止の労務交渉をしていた労働組合の面々だった。しばらくして組合の委員長が営業部長になったという。冗談のようだが、本当の話である。

ハワイアンセンターは、中村が目指したような、まさに誰の力も借りない「自前」の施設だったのだ。

炭鉱の空気の中で育ってきた人間が踊ることに意味がある

「人まねをするな。すべて自前でやれ」

そうした中村の信念は、フラガールの育成にも生かされている。

ハワイアンセンター開業の前年、昭和40年4月に設立されて以来、半世紀を超えた現在も続く「常磐音楽舞踊学院」の存在がそれである。

当初、フラとタヒチアンダンスを中心としたショーを連日お客に見せるという中村の構想を聞いた時、社内のすべての人間は、東京からプロのダンサーを呼んでくるのだろうと思っていた。

しかし、ただ一人、中村の考えだけは違っていた。炭鉱の娘を集め、彼女たちを一から指導してダンスをマスターさせ、ステージで踊らせるというのである。

とはいえ、当時はまだダンサーという職業に対して偏見があった時代だ。しかも、ここは東北の炭鉱町いわきである。「腰振り踊り」「ヘソ出し踊り」などとからかわれ、炭住の世話所を通じてダンサーにならないかと炭鉱の子女に声をかけても、

「人前で裸になって踊るなんて恥ずかしくてできない」

といわれ、両親からも、

「そんなことをさせるために、娘を苦労してここまで育てたのではない」

といわれて、けんもほろろに断られてしまい、学院の開校が迫ってきたというのに思うように人が集まらなかった。