いまの時代の「サブカルチャー」とはなにか
――宇野さんは「結びにかえて」で、「私たちはあくまで『……ではない』という言葉ではなく『……である」という言葉で対峙しようと考えている」と書いています。その具体例として、2015年に東京五輪についてのさまざまなアイデアを提案した「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」を挙げています。宇野さんの仕事としては、今後どういうところを見据えているんでしょうか。
ここから先は虚構を経由した人間だからこそ持てる視点、それこそ「ゴジラの命題」を受け止めた人間だからこそ持てる視点を使って、現実の世の中にコミットしていく。そういうことを考えていますね。アニメーションやゲームについて批評するというのもひとつの選択肢だと思いますが、あまりそうするつもりはない。むしろいまの時代における「80年代や90年代のアニメ」とは一体なにか。それにコミットしていくことのほうが、戦後サブカルチャーの継承者として正しいと思っているんです。それが僕にとって、(チームラボの)猪子寿之や(メディアアーティストの)落合陽一の仕事なんですよね。
――批評家としてはどうでしょうか。
批評という言葉にぼくはまったく思い入れがなくて……。ただ、語り口は変えていきたいですね。あまり切断的な物言いをしたくないな、とは考えています。AとBという対立するものを持ってきて、その間を往復する。もしくは衝突させる。しかし、この数年、そういうやり方が今の時代には有効ではないと考えるようになっているんです。切断的な言説であることによって得られる豊かさもあると思うけれど、失ったものも非常に大きいと思う。少なくとも僕は、これから自分が世の中にコミットしていくうえでは、接続的な言葉を語っていきたいと考えています。
政治と文学の間には「生活」がある
――宇野さんは批評家であることと編集者であることは「クルマの両輪」だと言っていましたが、今、編集者としてはライフスタイルや生活について取り上げることが増えていますよね。それはなぜでしょうか。
公的なものと私的なものを「政治と文学」という言葉でとらえると、私的なものである「文学」の領域がまず情報テクノロジーで変わってきていると思うんですよね。メディアのあり方、人間の自己評価、ソーシャルなつながりが、情報テクノロジーによって変化した。それを「政治」の変化につなげるためには、ワンクッションが必要だと思います。いわば政治と文学の間には「生活」があると思うんですよね。
この本の「結びに変えて」に書いたことも、2013年に発行した雑誌『PLANETS vol.8』で提案したことと同じなんです。『PLANETS vol.8』では、冒頭で情報社会を特集しつつ、後半は「この日本をどうするべきか」という政治特集になっています。そして中盤に衣食住の記事を挟んでいるんですね。なぜそういう構成にしたかというと、情報社会というテクノロジーから世の中を変えていくには「生活」を挟む必要があるからです。90年代後半から今までの20年に起こったことは「情報テクノロジー×メディア」の変化でした。そして、ここからの20年は「情報テクノロジー×生活」の変化なんですよ。実空間を情報技術が変えていく。編集者としての僕は今そこが一番面白いと思って、そういう企画をたくさん立てているところです。