「あの日」。釜石SWのゼネラルマネジャー、高橋善幸は本事務所の1階にいた。新日鉄総務部総務グループのマネジャー。「高津波警報」で3階にあがる。釜石駅あたりを見ると、渋滞の車が津波に沈もうとしていた。
会社を飛び出し、高台に走って、逃げる人をロープで引き上げた。その後、社員や家族の安否確認、家を失った人の避難所への誘導に追われた。夜は釜石SWのクラブハウスにいき、ロウソクの灯を頼りに選手の安否を確認した。
「私は総務なので何でもやりました。避難所を担当し、毛布などを配っていったのです」
一般の避難所を回ると、「製鉄所さんがはやく元気になってもらわんと」と声を掛けられた。4月中旬まで、社員や家族の安否確認作業を続けた。まず職場を復旧させることが従業員や家族を安心させることになる。工場を復活させることが街を元気にすることになる。高橋はそう、思っていた。
釜石ラグビーでいえば、V7に貢献した佐野正文さん(享年63)が津波にのまれて亡くなった。何人もの人が家族や親族を失った。
46歳の高橋は花巻市出身。明大で名プロップとして鳴らし、87年、新日鉄釜石に入社した。震災で家族は無事だったけれど、水産加工業を営む妻の実家の工場は津波で流された。
「普通の生活を送ってきた人が何の前触れもなくいなくなる。被災された方々の心情を思うと……。でもぼくらは前に進むしかないのです」
4月13日の再稼働の日、釜石製鉄所を訪れた新日鉄の宗岡正二社長の「新日鉄ある限り、この釜石とともに歩む」との言葉に胸がアツくなった。釜石製鉄所の谷田雅志所長の激励文には「もうひとふんばりするぞ」と思った。