なぜ誰一人助けてくれないのか? なぜ誰にも打ち明けられないのか?

老親や病気の人などのケアを無償でしている人を「ケアラー」と言います。

老親などケアが必要とする人にとって、自分の存在は「頼みの綱」。ケアラーは重い責任を負うことになります。そして、ひとりで背負いこんで孤立し、心身ともにボロボロになってしまうケースも増えています。それが、現実です(その実態は次回に報告予定)。

深刻化する前に、誰かに気軽に相談すればいいのではないか?

部外者はそう思います。でも、当事者であるケアラーの気持ちは複雑です。介護や世話をしていると、あとでひどく悔やむことや、自分を責めずにはいられない言動をしてしまうことがあります。老親などに対してイライラしてつい怒鳴ってしまうようなことが日常的に発生するのです。

ケアラー本人はそのことに「自分には愛情が欠けているのではないか」「頑張りが足りないのではないか」と罪悪感のようなものを感じ、他人に、そうした赤裸々な話を告白することに躊躇してしまうのです。同時に、寝たきりの老親の状態をあけすけと家族や近親者以外の人に語るのも人として正しい行為とは思えない。少しでも言えば、かえって責められてしまうかもしれない。

仮に、医師や担当ケアマネージャーなどの専門家にケアのしんどさを訴えても、たいていはありきたりな毒にも薬にもならないアドバイスをされるだけで(「ちょっと様子をみましょう」とか)、不安や苛立ちの解消にはつながりません。結局、さまざまな悩みを抱えたまま老親と向き合う閉塞した日々が続くことになります。

きっと、そういうしんどさやイライラを感じるケアラーはひとりだけではない。誰かにお話をして、「実は私もそうなんです」と言ってくれる人が現れたら、どんなに楽か。

そんな発想によって誕生したのが「ケアラーズ・カフェ」です。前回書いた日本ケアラー連盟の代表理事、牧野史子さんが先導役になって2012年に東京・杉並区に設立した、ケアラーの集いのカフェです。

新高円寺にある、そのカフェ(店名「アラジン」)に行ってみました。すると、実にゆったりとした時間が流れていました。