明治から昭和にかけて活躍した作家の中島敦さんの作品に、『名人伝』がある。

紀昌という男が、弓の名手になりたくて、名人の誉れ高い飛衛に入門する。厳しい修行の甲斐があって、紀昌自身も名人と呼ばれるようになるが、次第に弓をとらなくなる。

ある日、紀昌に弓を見せた人が、驚く。紀昌は、それが弓であることをすっかり忘れていて、何の道具かわからなかったのである。

もともとは、何かの用のために使われていたことが、達人にとっては、もはやその用のためには必要なくなる。そのような究極の世界を、自身も天才的な資質を持っていた中島敦は描いたのである。

達人といえば、こんな光景を目撃したことがある。達人とはそういうものか、というエピソードとしてお読みいただきたい。

先日、国立科学博物館の「未来技術遺産」に指定されたソニーのエンターテインメントロボット「AIBO」。1999年に発売された際には大ブームとなり、ロボットが社会に受けいれられるうえで重要な役割を果たした。

AIBOの生みの親である土井利忠さんは、コンパクトディスク(CD)の規格の制定に関わるなど、数多くの大きな仕事をされた伝説的な技術者である。「天外伺朗」のペンネームでたくさんの著作を発表するなど、多彩な顔を見せる。

その土井さんと、ある会議で一緒になった。発表者が話しているうちに、土井さんが、「メモ用紙が欲しい」とおっしゃった。聞いているうちに、何か書き留めておきたいことができたのだろう。

誰かが土井さんに紙を渡して、土井さんは熱心にメモを取り始めた。1枚、2枚、3枚……。聞いているうちに、どんどん、メモが重なっていく。よほど、話の内容に興味を持っているのだろう。