なぜ戦いを避けることばかりが目立つのか
この連載を読まれて、兵法書『孫子』に対するイメージが変わった方もいるかもしれません。その理由の一つは、筆者が『孫子』を積極的な行動を引き出すための書籍として描いていることも一因でしょう。一方、広く普及している孫子のイメージは「百戦百勝するは善の善なるものにあらず」などのように、戦いを避ける、リスクを嫌うなどの点が強く印象に残ります。最終回はこのギャップについて解説したいと思います。
「戦争は国家の重大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。それゆえ、細心な検討を加えなければならない」
「百回戦って百回勝ったとしても、最善の策とはいえない。戦わないで敵を降服させることこそが、最善の策なのである」
(引用『孫子・呉子』守屋洋・守屋淳 プレジデント社より)
この2つの文章は孫子の中でも有名な文章ですが、慎重さと軽率に戦わないことも重要性が強調されています。ところが、ありがちなこととしてこのような孫子のメッセージが「何もしないこと」の正当化に使われてしまうことがあるのです。
「戦わないで敵を降服させることが最善」であるのは事実ですが、何の策もなく、しかもなんの行動も起こさなければ、何も手に入ることはありません。失うものがないだけ良かったのだ、という考え方はできます。戦うこと(例えば新規事業を起こすこと)で、財産を失ってしまうビジネスマンは、決して少なくないからです。
ならば、一般に成功者とみなされる人たちも、上記と同じように「失わなかった幸福」に満足する道を常に選んでいるかといえば、そんなことはありえません。彼らは人より多くを手に入れ、多くの夢を叶えたからこそ成功者と呼ばれているのですから。
これは一体、何を意味しているのでしょうか?
同じ孫子を読みながら、一方は「手に入らないことに満足する」ことで終わり、もう一方はいくつも欲しいものを手に入れ、周囲がうらやむ人生を謳歌しているのです。