リストラに体を張って徹底して戦うカリスマ

この頃から、労働組合(総評全国一般)の活動を始める。特に中小企業で働く労働者の支援に力を入れた。1964年、東京五輪が開催された頃だ。

高度経済成長の最中、資本の力が強くなるのに対し、小さな会社で働く労働者は時代から取り残されたような存在になっていたと、設楽さんの目には映ったようだ。

組合活動に力を入れるあまり、単位を取ることができなくなくなり、留年となった。1965年には、父親が亡くなる。いくつものアルバイトをかけもちするが、学費をねん出することが難しくなる。ついに、辞めることを考え始めた。

慶應大学の、地方から上京してきた学生の多くは親が会社を経営しているなど、比較的、裕福だったと設楽さんには見えた。

「彼らは小市民的な豊かさの中、会社員になりたくないという、生意気な自立精神を持っていたように見えました。私も、そのような考えでいたかったのです。親は自営業ではないし、裕福でもないけれど、会社に就職することはとても嫌だったのです」

当時は、大学進学率は今のようには高くはない。設楽さんの中学校の同級生には、卒業すると、大手メーカーに就職し、定時制の高校に通う人も少なくなかった。

「私の成績は、中学校で学年では上位10~15番くらい。私よりもはるかに優秀な生徒が、都立の鮫洲工業高等学校(定時制)などに進んでいたのです。慶應大学に入ってから、彼らを見ると、自分よりも意識が高く、確かな実力も身につけているようでした。俺も、早く大人にならないといけないという思いを強くしていったのです」

その後、退学した。「慶應中退? 未練や後悔はまったくないね」と、自信満々に答える。労働組合の専従の職員をすることになる。学生運動で培った「喧嘩の仕方」を活かし、会社との団体交渉や裁判などを繰り返す。経営者たちから恐れられることになる。

1992年には東京管理職ユニオンを結成し、書記長を務め、ユニオン・リーダーとなる。相次ぐリストラに、体を張り、徹底して闘うことでカリスマ的な存在となっていく。

「『ふざけるな!』と怒鳴るだけでは、交渉はまとまりませんよ。社長は、会社のことをよく言われると、悪い気はしないものです。だから、ほめ殺しもします。『こちらの会社は、立派ですね。前々から、感心していました』などと言うこともあります。何に感心しているのか。私にもわかりません。理屈が通らない、ほめ殺しなのかな……(笑)」