現在こそが幸福の頂点と考える若者たち
少年よ、大志をいだけ。これは古い(^o^)。青雲の志、すでに死語かもしれない。夢を見るという行為には、社会そのものが成長期にあるという条件がともなうようである。いまはまだ貧しいが、勤勉に学び、働けば、将来はきっとよくなるという期待があるから、人は夢を見ることができる。
いまのような閉塞感漂う時代に夢を語るのには、抵抗を感じる人も多いだろう。高度成長期には、今日よりは明日の生活が豊かになるのを信じることができ、だから「今は幸福ではないが将来は幸福になれる」という期待(夢、幻想)を持つことができた。ところが、2011年に話題になった『絶望の国の幸福な若者たち』(古市憲寿、講談社)という本によれば、今の若者は現在こそが幸福の頂点と受け取りがちだなのだという。
社会の物質的な水準そのものが高くなって、クーラーもあれば、冷蔵庫も、洗濯機も、カラーテレビも、パソコンも、スマートフォンもある。コンビニに行けば食糧も豊富である。高度成長期に比べれば物質的に豊かになっているのは間違いない。
一方で、将来の幸福を実感できにくくなっている。「もはや自分がこれ以上幸せになると思えない時、人は『今の生活が幸せだ』と考えるしかない」と著者は書いている(「内閣府の『国民生活に関する世論調査』によれば、2010年の時点で20代の70.5%が現在の生活に『満足』していると答えたという)。
これはこれで納得できる話である。しかし、「一流のスポーツ選手になる」「芸術家になる」「実業界で成功する」「貧しい人たちを助ける」といった比較的大きな夢から、「今年中に禁煙する」「目指す大学に合格する」「シティマラソンで完走する」「今月のノルマを果たす」といった身近な夢、あるいは課題に至るまで、人生の目標を設定することが日々の生活を充実したものにしてくれる。社会が成長期であろうと、衰退期にさしかかっていようと、これはこれで変わらぬ真理だと言っていい。ここで取り上げるのは、そういう夢の話である。