関ヶ原が領地、息子の時代に合戦が

ただし、その頃には義父・光泰も鬼籍に入っており、7歳年下の義弟・加藤貞泰が加藤家の当主となっていた。重門と貞泰は仲が良かったらしく、慶長5(1600)年9月の関ヶ原の合戦では、2人で家康に書状を送って服属を誓い、家康から2人連名で書状を下されたという。

関ヶ原の戦場史跡
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実は関ヶ原は竹中領であり、現地の状況を把握しうる状況にあった。

当初、毛利・石田方だった竹中重門が、徳川方に寝返ったことで、石田三成が練りに練った策略が水泡に帰したという説もある(『竹中重門と百姓の関ヶ原合戦』)。また、合戦後は逃亡中の小西行長の捕縛などに功績があった。

徳川方が関ヶ原周辺の村々を放火するなど戦災に遭ったことから、合戦後に迷惑料として1000石を賜っているが、加増はされなかった(重門の孫・竹中左京重高が弟に1000石を分知したので、禄高は5000石となった)。

【図表】竹中家系図
出典=『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)

重門の嫡子・竹中越中守重常(1598〜1664)は、北政所・寧の実家である杉原伯耆守長房の六女と結婚している。豊臣家臣の多くは、家康の閨閥に組み込まれていくが、竹中家は秀吉門閥との婚姻が多い。家康から見ると、竹中家はもはや利用する価値のない家系だったのだろう。

岐阜県不破郡垂井町に残る竹中重門が築いた陣屋跡と竹中半兵衛像
写真=photolibrary/相良陽
岐阜県不破郡垂井町に残る竹中重門が築いた陣屋跡と竹中半兵衛像