※本稿は、菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。
秀吉が城持ちになった頃の家臣団
『松平記』では桶狭間の戦いの13年後、天正元(1573)年くらいの織田・徳川家臣団の「武辺場数これ有る衆」を掲げ、秀吉の与力(信長の直臣で軍事指揮下に預けられた者)として8人をあげている(一部推定を含む)。
・美濃4名 竹中半兵衛重治、谷大膳衛好、谷兵助、加藤作内光泰
・尾張2名 蜂須賀彦右衛門正勝、佐久間弥太郎
・不明2名 宮田喜八光次、伊藤与三右衛門
当時、信長の妹・お市が嫁した北近江の浅井家が滅ぼされ、秀吉は長浜城主に抜擢された頃である。不明の2名も尾張・美濃のいずれかの出身と考えられるので、創業期の豊臣家臣団は美濃出身者が多く、尾張出身者がこれに次ぎ、近江出身者が組み込まれつつあるといったところだったのではないか。
「二兵衛」竹中半兵衛と黒田官兵衛
秀吉が織田家臣団の一員として、近江の浅井家を攻略し、中国経略で活躍した時の家臣(与力を含む)は、主に1540年代生まれである。
俗に軍師と呼ばれる竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高を半兵衛と官兵衛という二人の「×兵衛」、つまり「二兵衛」と呼ぶこともあるようだ。ここでは、秀吉と同い年の加藤光泰から15歳年下の仙石秀久までを「二兵衛」世代と呼んでみた。
二兵衛世代は美濃出身者が多い。これに対し、尾張出身者は豊臣秀長、小出秀政、木下家定、浅野長政と秀吉の近親ばかりで、近親以外は堀尾可晴、山内一豊くらいである。
元亀・天正の1570年代、秀吉を支えていた30代の主力家臣は、美濃出身者で構成されていたということだ。しかし、関ヶ原の合戦(1600年)の頃、かれらは世代交代の時期に差し掛かり、大身の大名に飛躍することができなかった。
ちなみに、「二兵衛世代」の美濃組(竹中、加藤、一柳、仙石)は互いに閨閥を構成していない。せいぜい竹中半兵衛と加藤光泰が子ども同士を結婚させているくらいである。
竹中半兵衛は大名の嫡男だった
竹中半兵衛重治(1544〜79)は美濃国不破郡菩提山城(岐阜県不破郡垂井町岩手)の城主・竹中遠江守重元(1499〜1560)の嫡男として生まれた。通称は半兵衛、諱は重虎、のち重治。
主君の斎藤龍興は酒色に溺れ、政務を顧みなかったといわれ、半兵衛は諌言する意味で、永禄7(1564)年2月に義父・安藤守就(「豊臣兄弟!」では田中哲司が演じる)、弟・重矩らで、斎藤家の居城・稲葉山城(岐阜城)を占拠することに成功したという。
織田信長から稲葉山城を譲るように打診されたが断り、のち斎藤家に返却して隠棲した。秀吉が三顧の礼で家臣に迎えたと『太閤記』などでは伝えているが、斎藤家の没落で織田家に転じ、信長の指示で秀吉の与力になったというのが実情であろう。
稀代の知恵者で、秀吉の参謀・軍師といわれているが、実際にどのように戦略・戦術に関与したのかは不明である。ただし、元亀元年に近江浅井家の家臣・堀秀村を調略したのは事実らしい。
生来病弱で36歳にて死す
竹中半兵衛重治は生来、病弱で、三木城攻めの陣中で病死したという。
妻は「西美濃三人衆」の一人・安藤伊賀守守就の娘である。
義父が斎藤家を代表するような大身の部将ということは、重治自身もかなりの動員能力があったと推察され、それゆえ秀吉に重用されたのではないか。加藤光泰、一柳直末・直盛兄弟、仙石秀久、谷衛好など、いずれも美濃出身であるが、城主の子という身分の高い者は一人もいない。
重治はわずか36歳で死去したためか、子は竹中丹後守重門(1573〜1631)一人のみである。
天正16(1588)年、重門は16歳で従五位下丹後守に叙任されたが、所領自体は多くを与えられなかったようで、寛永2(1625)年に本領安堵された所領はわずか6000石だった。
妻は同郷の加藤遠江守光泰の次女である。光泰は半兵衛に九死に一生のところを助けられた恩があり、遺児・重門の後見を買って出たのかもしれない。重門の長男が慶長3(1598)年に生まれているので、遅くともその前年には結婚していたのだろう。
関ヶ原が領地、息子の時代に合戦が
ただし、その頃には義父・光泰も鬼籍に入っており、7歳年下の義弟・加藤貞泰が加藤家の当主となっていた。重門と貞泰は仲が良かったらしく、慶長5(1600)年9月の関ヶ原の合戦では、2人で家康に書状を送って服属を誓い、家康から2人連名で書状を下されたという。
実は関ヶ原は竹中領であり、現地の状況を把握しうる状況にあった。
当初、毛利・石田方だった竹中重門が、徳川方に寝返ったことで、石田三成が練りに練った策略が水泡に帰したという説もある(『竹中重門と百姓の関ヶ原合戦』)。また、合戦後は逃亡中の小西行長の捕縛などに功績があった。
徳川方が関ヶ原周辺の村々を放火するなど戦災に遭ったことから、合戦後に迷惑料として1000石を賜っているが、加増はされなかった(重門の孫・竹中左京重高が弟に1000石を分知したので、禄高は5000石となった)。
重門の嫡子・竹中越中守重常(1598〜1664)は、北政所・寧の実家である杉原伯耆守長房の六女と結婚している。豊臣家臣の多くは、家康の閨閥に組み込まれていくが、竹中家は秀吉門閥との婚姻が多い。家康から見ると、竹中家はもはや利用する価値のない家系だったのだろう。
豊臣家臣団の特攻隊長、加藤光泰
豊臣家臣団の特攻隊長、加藤遠江守光泰(1537~1593)は美濃斎藤家の家臣・加藤権兵衛景泰(?〜1570)の子として美濃国多芸郡橋爪庄(岐阜県養老郡養老町橋爪)に生まれた。通称は作内、遠江守。
斎藤家没落の後、秀吉に仕えた(織田家に仕官し、秀吉の与力になったか)という。
秀吉が横山城に在番している際、朝倉義景の急襲を受けたことがあった。光泰は先頭に立って反撃したが、絶体絶命のピンチに陥り、竹中半兵衛の救援を得て九死に一生を得た。その結果、光泰は歩行が不自由になるほどの満身創痍となった。秀吉からその功を賞され、元亀2(1571)年に近江北郡のうち700石を与えられ、与力10人を附けられたという。
先頭で敵の大軍を受けて立ち、数多くの合戦で先鋒を担った。いわば豊臣家臣団の特攻隊長だった。前出の『松平記』の「武辺場数これ有る衆」で、掲げられた秀吉の与力8人のうちの1人。他家(徳川家)にも知られた剛の者だったのだ。
尾張犬山城の城主となるが…
加藤光泰は天正6年の播磨三木城攻めに参陣し、天正8年に播磨のうち5000石を加増された。
天正10年の山崎の合戦では秀吉軍の先鋒を務め、合戦後の論功行賞では丹波周山1万7000石を賜った。さらに、天正11(1583)年の賤ヶ岳の合戦後に近江高島城主となり、ほどなくして尾張犬山2万石に転封となった。
天正13年に美濃大垣4万石に転じたが、分不相応に家臣を抱えたことなどで秀吉から叱責され、翌天正14年に羽柴秀長附き1万石に減封されてしまう。
しかし、秀吉に赦され、近江佐和山2万石に転封、天正18年の小田原征伐の後、甲斐府中(山梨県甲府市)24万石を与えられた。文禄の役で朝鮮に出兵し、その帰途で病死した。享年57。
