豊臣家臣団の特攻隊長、加藤光泰

豊臣家臣団の特攻隊長、加藤遠江守光泰みつやす(1537~1593)は美濃斎藤家の家臣・加藤権兵衛景泰(?〜1570)の子として美濃国多芸郡橋爪庄(岐阜県養老郡養老町橋爪)に生まれた。通称は作内さくない、遠江守。

斎藤家没落の後、秀吉に仕えた(織田家に仕官し、秀吉の与力になったか)という。

秀吉が横山城に在番している際、朝倉義景の急襲を受けたことがあった。光泰は先頭に立って反撃したが、絶体絶命のピンチに陥り、竹中半兵衛の救援を得て九死に一生を得た。その結果、光泰は歩行が不自由になるほどの満身創痍まんしんそういとなった。秀吉からその功を賞され、元亀2(1571)年に近江北郡のうち700石を与えられ、与力10人を附けられたという。

「加藤光泰像」、19世紀(東京大学史料編纂所蔵)
「加藤光泰像」、19世紀(東京大学史料編纂所蔵)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

先頭で敵の大軍を受けて立ち、数多くの合戦で先鋒を担った。いわば豊臣家臣団の特攻隊長だった。前出の『松平記』の「武辺場数これ有る衆」で、掲げられた秀吉の与力8人のうちの1人。他家(徳川家)にも知られた剛の者だったのだ。

尾張犬山城の城主となるが…

加藤光泰は天正6年の播磨三木城攻めに参陣し、天正8年に播磨のうち5000石を加増された。

菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)
菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)

天正10年の山崎の合戦では秀吉軍の先鋒を務め、合戦後の論功行賞では丹波周山1万7000石を賜った。さらに、天正11(1583)年の賤ヶ岳の合戦後に近江高島城主となり、ほどなくして尾張犬山2万石に転封となった。

天正13年に美濃大垣4万石に転じたが、分不相応に家臣を抱えたことなどで秀吉から叱責され、翌天正14年に羽柴秀長附き1万石に減封されてしまう。

しかし、秀吉に赦され、近江佐和山2万石に転封、天正18年の小田原征伐の後、甲斐府中(山梨県甲府市)24万石を与えられた。文禄の役で朝鮮に出兵し、その帰途で病死した。享年57。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。