ロンドン、パリで遊学した治郎八と結婚

調査書には「円満率直なるだけに事物に対する考察力批判力等は勝れざる方にて諸事鷹揚しょじおうようの二字に帰着すべし」と記されていた。結婚に積極的だったのは薩摩家で、山田家は難色を示していたとも言われるが、この頃は金持ちの商売人と質素な華族の結婚はよくあることだった。

式は翌年に帝国ホテルで行われ、招待客は280名、リストには華族に並んでフランス大使館の面々や堀口大學などの名前もあった。また、式の4日後には芝の紅葉館で山田家主催の会が開かれた。

前年に大震災で焼けた駿河台の家の跡地に、治郎八はパリ風の凝ったVilla mon Caprice(気まぐれ荘)と名付けた家を建て、新婚夫婦はそこに住まった(戦後、偶然獅子文六が住むことになり『但馬太郎治伝』が書かれる契機の一つとなる)。