セツがもらわれた稲垣家は中間層だった

『列士録』によれば、稲垣家は元祖の藤助とうすけが延宝元年(1673)二代出雲藩主の綱隆つなたかに召し抱えられて以来、6代目の万右衛門に至るまで、たいていは、50人ひと組に1人の番頭の采配を受ける組士であった。たとえば『安政二年御給帳』(『雲藩職制』所収)で、当の万右衛門は、赤木内蔵組50人中18番目に名が記されている。

家禄は3代目以後、(セツと八雲の長男である)小泉一雄が記す通り百石で、士分の侍の中でも、まず平均的な暮らし向きの家であり、典型的な並士であって、明治4年(1871)末の『士族給禄帳』でも、士分の侍999人中428番目に、家督を相続したばかりの稲垣金十郎の名が見え、大体の家の格式を知ることができる。

稲垣家の屋敷は、神作柳子の「ヘルンの旧居と結婚」(『学苑』第五巻十二号所収)が、内中原祖母橋の東南としているが、城下屋敷図のいずれも、当の位置に「稲垣」と記している。昔は、松江城の西の内堀と、外堀に当たる四十間堀けんほりとの間に、もう一つの堀(中堀)が南北に穿うがたれていて、その北端に祖母橋が架かっていた。セツが幼年時代を送った稲垣家の屋敷は、その堀の東側の土手に面していたのである。