最も数字を持つ男は、数字を追わない
木村拓哉は96年の『ロングバケーション』以降、フジテレビのドラマの看板枠である「月9」の主演を11回と、最も多く務めてきた。平成の連続ドラマの視聴率トップ5は全て木村の主演作である。『HERO』ひとつとっても、11話全てが視聴率30%超えという日本の連ドラ史上唯一の快挙を遂げており、劇場版の興行収入は81.5億円……など、木村を表す記録的な数字は多く存在する。日本の芸能界で最も数字を持つ男と言ってもいいだろう。
だが、近年の発言にふれると、自分たちが力を結集して創り上げた作品に対して、ずっと「月9」のような商品的な煽りをされることや、自身が芸能界の真ん中のような表現をされること、視聴率のみでその成果をジャッジされることなどに抵抗があったのではないかとも思う。
木村が数字について語るときは「自分を数字にしてしまったら、それでおしまいだから(※3)」といったように、不思議と“終わり”を示す言葉とセットになる。
50歳を迎え、こうも語っている。
「数字はテレビ局や映画会社の人が気にすること。俺、そこじゃないもん。そこを追っていたら……(中略)もう辞めてんじゃないですか」(※4)最も数字を持つ男は、数字を追わない男でもあるのだ。
オーディションを3回もバックれていた
そもそも、木村拓哉は3回も“バックれ”たあとに、4回目にしてジャニーズのオーディションを受けている。当時を“ワル哉くん”だったと振り返る(※5)青年だった。
そんな“ワル哉くん”は、1989年、当時17歳の頃にジャニー喜多川に蜷川幸雄のもとに連れて行かれ、初舞台を踏んだことで開眼する。厳しい指導で10円ハゲができて白髪が生えたほどだったが(※6)、50代になってターニングポイントを聞かれても、ヒットしたドラマではなく、この舞台をあげる。
「蜷川幸雄さんの指導で、拍手をいただけることがどれだけすごいことか。舞台に上がることがどれだけ大変か。初めて理解できた(※7)」という。「そこでスイッチが入った」「経験していなかったら、たぶん(今の活動を)やっていないと思います(※8)」と語るほどの、重要な仕事である。
芸能界で大活躍することになる木村拓哉も、仕事に本腰を入れるきっかけは本物の“芸事”に触れた瞬間にある。その後、芸能界で大ブレイクしてしまう木村が、蜷川幸雄の舞台を踏めたのは、その最初の一度きりである。そんな木村拓哉にとって、近年の動きは本来いたかった場所に回帰しようとしているようにも見えるのである。