初めての「国の決まりを守っていれば私も守られる」感覚

そして最も、「運転は男性の世界である」と感じたのは、法定速度です。

教習所で「法定速度30キロの道は、35キロくらいまで出していいから」という教官がいました。「ゆっくり走ってたら他の車をイラつかせるから、他の車の流れを見てそれに合わせて」という意味です。他の教官も、私が法定速度ピッタリで走っていると「実際にこの速さで走ったら、クラクション鳴らされるよ」と教えてくれました。

しかし実際に運転するようになると、初心者マークを貼っているからかもしれないけど、法定速度で走っていて、周りの車に急かされたことは今のところありません。

教習所の時は「速く走らなきゃ! 35キロ出さなきゃ!」と思っていたけど、今は逆に、歩行者や車がいてどうしてもゆっくり走らないといけない時は「30キロのところを30キロで走ってるんだから何も悪くない」と堂々とした気持ちでいるようになりました。もしクラクションを鳴らしてくる運転者がいたら、その人のほうが交通違反じゃないか。国家、警察が決めたことを守っている私は、堂々としていればいいんだ。

そういう風な「国の決まりを守っていれば、私が守られる」という初めての感覚に、驚きで脳がビリビリしました。

なぜ彼らは「どこからがセクハラなのか」と聞くのか

ハラスメントが取り沙汰される時、その加害者となりがちな“権力を持つおじさん”は周りにこう尋ねます。「どこからがセクハラなんだ」「どういう言動をしたらパワハラになるのか」

「やられた人がイヤだ、と言ったらハラスメントだよ」と教えられても、彼らは「いや、どこまでがOKなんだ」と法律について聞いてくるので話が噛み合いません。

「どこまでやったら怒られるのか、捕まるのか」という質問は、国とか国家とか警察とか法律とか、何かしら、自分より大きな存在に守られているという信頼、そして自分は守られるべき存在であるという確信がないと出てこない疑問です。

「あなたがやっていることはハラスメントですよ」ととがめられた時に「どこまでやったら捕まるのか」と聞き返す人は、自分自身に最も近い「自分自身の気持ちや感覚」やその次に近い「自分に対して抗議している相手の気持ち」は一切無視していて、何よりもまず「法律」に注目しています。つまり「目的地」を見ているのです。

イラスト=田房永子
運転で「見えないカベ」の向こう側を体験できた