文体・文学性が一貫していない

それでは、どうしてこれほどまで多く異筆説が唱えられたのでしょうか。理由のひとつに、五十四帖のなかで文体・文学性が一貫していないという問題があります。「宇治十帖」の直前に置かれた三帖が、「雲隠」以前に比べると文学的に劣るという指摘は夙にされており、異筆説の論拠とされてきました。

文体の違いに関しては、各巻の頁数、和歌の使用度、文の長短、品詞別単語頻度などを統計学の手法を用いて分析した研究が存在します。その結果、控えめな論調ながら「宇治十帖は、他の四十四帖と、文体がやや異なっている」という結論が導き出されました(安本美典『現代の文体研究』1977年)。

物語の中に「設定ミス」が数多くみられる

もうひとつは、構造上の齟齬そごの問題です。たとえば、夕霧は「竹河」で左大臣に昇進していますが、なぜか以降の巻では以前の官職である右大臣として登場しています。有名なものでは、光源氏の恋人である六条御息所の設定上のミスもあります。「賢木」で語られた彼女の経歴が、「桐壺」の記述と矛盾しているのです。

このように、「源氏物語」には設定上の齟齬が散見されます。こうした齟齬が、物語が複数の人々の手によって作られたのではないかという推測を呼びました。

古い時代、物語は第三者の手によって改訂され、流布されるのが当たり前でした。現在の我々が手にする「源氏物語」が、紫式部という独創的な作者の創作物であることは間違いありません。ただし、同時に多くの人々の思考のフィルターを通過した共同制作物であることも、また否定しがたいのです。