学会を震撼させた驚きの新説
五里霧中にあった起筆論は、昭和に入ると大きく進展します。「花宴」までの巻を「若紫グループ」と「帚木グループ」に分け、後者をあとから挿入されたものとする阿部秋生の画期的な説が登場したのです。これに続いて、玉上琢彌は、「源氏物語」は当初短編として「帚木」の並びから起筆されたものだと説きます。合わせて、「帚木」の前には現存しない「かかやく日の宮」が存在したが、長編として仕立てられた際に欠巻となったという仮説を主張しました。
戦後になると、「藤裏葉」までを「紫の上系」と「玉鬘系」に分け、後者をあとから挿入されたものとする武田宗俊の説が登場し、学界に衝撃を与えます。武田は両系統に登場する人物を細やかに分析することで、紫の上系の人物は玉鬘系に登場するにもかかわらず、玉鬘系の人物が紫の上系に登場しないことを明らかにしました。つまり、紫の上系の執筆時に、玉鬘系の構想はなかったというのです。
専門家の意見はいまだに割れている
武田の説を受けて、風巻景次郎は古注の分類による「並びの巻」を成立問題と結びつけました。玉鬘系の巻は、後記挿入された際に本系と区別するために「並びの巻」として扱われたというのです。風巻によると、ここに分類されない「帚木」と「玉鬘」は、もとは現存しない「かかやく日の宮」と「桜人」に対する「並びの巻」だったといいます。つまり、風巻の説は「並びの巻」が後記挿入されたことを積極的に主張するものでした。
こうした説は、学界に新たな論争を巻き起こしましたが、批判する説も相次いで主張され、以降「源氏物語」の成立をめぐる議論は、次第に沈静化していきました。何れの説も、推論の域を脱することができなかったのです。
ほかにも、それぞれ「若紫」や「宇治十帖」を起筆とする説があれば、順当に「桐壺」から書き始められたことを主張する説も存在します。果たして、真相はどこにあるのでしょう。専門家たちの意見は、いまだに割れています。