逆転した秋篠宮家への“評価”

一方で、秋篠宮家に対する評価は、平成の皇太子一家とシーソーのように、逆転していく。きっかけは、眞子内親王と小室圭さんの結婚をめぐる騒動であった。これが長期化し、しかも金銭トラブルを発端に、様々な憶測を呼ぶような報道もなされたことで、週刊誌やネット上では秋篠宮家批判が展開されるようになる。

しかも、悠仁親王自身の筑波大学附属高校合格をめぐっても、「特別扱い」などの批判が出、様々な噂が駆けめぐった。秋篠宮家をめぐっては、進学や結婚といったプライベートな部分が国民的な関心を呼び、しかもそれが皇室ゆえに「公」の側面を持っていることから、その方向からの強い批判や反発が寄せられることになった。悠仁親王が未成年ゆえ、自身の言葉を話す機会が少ないことも、憶測を呼ぶ背景になっているのではないか。

以上のような愛子内親王と悠仁親王のあゆみを見てくると、人々の移ろいやすい関心という側面を感じることができる。メディアの報道も、まさにそうした観点からなされている。それゆえ、あるときは持ち上げられ、そしてあるときは下げられる。その構図が、平成のときとは逆転したのが今である。しかし、再逆転しないという保証はない。

たしかに社会は多様化し、ものすごいスピードで進展している。象徴天皇制も、特に平成以降、社会のあり方に寄り添いつつ、変化を遂げてきた。しかし、そうした短期的な面だけで象徴天皇制や皇族をとらえていいのだろうか。

皇族数が減少し、皇位継承は危機的な状況を迎えている。分断社会のなかで、「国民を統合する象徴」としての天皇・皇族の役割があり得るのではないか。私たち自身がその存在をしっかりと考え、皇族をどう受容するのか、何を求めるのか、今こそ考えるべき時期だろう。

◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2024年の論点100』に掲載されています。

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