家臣の問いに「箱根(関東)を誰に守らせるのか」と言った家康

家康の側近・謀臣として有名な本多正信は、主君のその様を見て、こう問いかけます。「(朝鮮に)ご渡海あるべきや、如何か」と。1度ならず、3度まで問いかけたとのこと。つまり、2度尋ねても、家康は口を開かなかったということです(それはなぜかは分かりません。家康は無口で知られていますが)。

3度問いかけてやっと家康は「それほど、うるさく聞くべきことか。箱根を誰に守らせるのか」と口を開きます。正信は家康の言葉を聞いて(かねてより、しっかりとお考えを定められていたのか)と思い、御前を退いたようです。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)に収録された逸話ですが、それによると、家康は朝鮮に渡海することはないだろうと踏んでいたことが分かります。

日本側の渡海拠点は、肥前国名護屋(佐賀県唐津市)で、家康は朝鮮に渡ることはありませんでしたが、名護屋には赴いています。天正20年(1592)3月17日、家康は都をたち、名護屋に向かいます。1万5千もの軍勢を率いていました。江戸の留守居は、後継者の徳川秀忠でした。

豊臣軍は苦戦し「日本のことは徳川殿に任せる」と言った秀吉

朝鮮に出兵した日本軍は、最初こそ、快進撃し、首都(漢城)、平壌ピョンヤンを陥落させますが、明国から朝鮮への援軍や、朝鮮の義兵が決起すると、苦戦を強いられることになります。『徳川実紀』によると、戦況がはかばかしくないことを聞いた秀吉は、次のような構想をぶち上げたそうです。

月岡芳年作「正清三韓退治 晋州城合戦之図」。文禄の役で加藤清正(佐藤正清)軍が苦戦する様子[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

「自ら30万の大軍を率いて、かの国に渡り、前田利家と蒲生氏郷を左右の大将として、3手に分かれて、朝鮮は言うに及ばず、明国にまで攻め入る。異域の者ども、ことごとく、皆殺しにしてくれよう」と。では、秀吉が朝鮮へ出陣した後の「日本」はどうなるのか。秀吉は「日本のことは、徳川殿(家康)がおられるので、心安い」と言ったそうです。

つまり、日本のことは、家康に任せるというのです。ちなみに、秀吉の言葉を聞いた利家と氏郷は「上意(秀吉のお考え)、かたじけなし(ありがたい)」と言上しました。両将を「左右の大将に」という秀吉の言葉に感謝の意を示したのでした。だが、このやり取りを聞いて、機嫌を損じた男がいました。