信長・家康連合軍打倒を誓うが、信長の勢力は拡大

また、天正元(1573)年9月21日、勝頼は、甲斐国二宮美和神社に願文を納めた。願文には「勝利を重ね、武名を天下に轟かせ、領国の備えは盤石とし、麾下きかの武士達が勇猛果敢にして『怨敵おんてき』を撃破して、二宮明神の神風を行き渡らせることが出来るようにして欲しい」と記されている。

新当主勝頼の意気込みと、「怨敵」(織田信長、徳川家康)打倒の強い意志が示されているのだが、この願文にはもう一つの意味が込められているといわれる。勝頼の願文は、二宮美和神社だけに奉納されている。実は、この神社は、兄武田義信が篤く信仰し、保護したことで知られる。その神社に、あえて家督相続直後に願文を納めたのは、非業の死を遂げた兄義信への鎮魂と、加護を求めようとしたのではないかと推定されている。かくして勝頼は、家臣や亡兄義信に配慮しながら、当主として動き出したのである。

撮影=プレジデントオンライン編集部
山梨県甲州市、JR甲斐大和駅前の武田勝頼像

織田信長は、元亀4年4月、武田軍が三河から撤退すると、ただちに京に出陣し、7月、将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させた。さらには8月、越前朝倉義景、近江浅井長政を次々に滅ぼした。

同盟国であった浅井・朝倉が滅亡し追い詰められる勝頼

浅井・朝倉両氏の滅亡と時期を同じくして、飛騨国の姉小路自綱が武田方から離反し、美濃国郡上郡の両遠藤氏も、織田に攻められて降伏した。こうして、信玄の死を契機に、織田・徳川の反撃が開始され、武田氏の同盟国は相次いで滅亡し、さらに飛騨・美濃・三河の境目の国衆も、次々と敵に帰属してしまった。武田勝頼を取り巻く環境は激変し、父信玄在世時と一転して、厳しい政治・軍事情勢下に置かれたのである。

武田勝頼は、天正2(1574)年から積極的な攻勢に出る。これを、信玄の遺言を破ったと考える向きもあるが、実はよく調べてみると、織田・徳川の攻勢への反撃か、失地回復という側面が強く、領土拡大という意味合いは結果的なものだった可能性が高い。

天正2年1月、勝頼は、織田領国の東美濃に侵攻した。

当時、東美濃では、岩村城が武田方の手に落ちていたが、織田方は周囲に付城を築き始めていたという。それが、飯羽間城などの城砦であったといわれる(『武徳編年集成』)。勝頼は、織田の眼が越前に向けられている間隙を衝き、1月27日に東美濃岩村城に入り、明知城などを攻撃した。