200名の部下が犠牲に
いずれにせよ、絶体絶命のピンチ――家康もまさか、こんな事態になろうとは夢にも思っていませんでしたから、連れていた家臣は、ごくわずかなものでした。
酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、本多重次、天野康景、高力清長、大久保忠佐、大久保忠隣、服部半蔵――少数でしたが、一面、そうそうたる顔触れ、まさに徳川家臣団のオールスターキャストですが、もし彼らを道中、危機に遭遇して失うようなことになれば、家康が生き残っても、徳川家の屋台骨はたちまち壊滅してしまったでしょう。
いろいろと考えた結果、家康は陸路=伊賀越えを選びました。
問題の道程ですが、本能寺の変の当日夜には山城国宇治田原に着き、翌6月3日には南近江路を通り、近江国信楽に至り、4日には甲賀衆、伊賀衆を味方につけ、ついに伊賀越えを果たします。
伊賀国白子より船便にて三河国大浜へ上陸し、無事岡崎城に帰還しました。
「神君伊賀越え」と後世に呼ばれるこの道中で、家康が率いていた兵のうち200余りが討たれたといいます。まさに、命からがらという表現がぴったりの逃避行でした。
家康一行とは別ルートで帰国を試みた武田家の穴山梅雪は、宇治田原で地元民の「一揆」により、生命を落としたことが『信長公記』に書かれています。
『三河物語』は、梅雪が家康と行動を共にしなかったのは、家康を疑ったためだ、と述べていました。
家康にとって生涯の不覚といえる出来事
その生涯で、ときに最大の危機と呼ばれたものを、辛くも乗り切り、帰国した家康は、叛臣・光秀を討つべく、6月14日に京に向けて軍を起こしますが、尾張国鳴海まで来た時、羽柴秀吉が山崎天王山で光秀を討った、との報せを受け、自らはそのまま浜松に帰城しました。
帰国して、急ぎ軍を整え、西上するのに、家康は10日かかったことになります。彼が秀吉という男を、次のライバルとして意識するようになったのは、この時からでしょう。
いわゆる、秀吉の“中国大返し”は、当時の常識では不可能に思えるものでした。家康は本能寺の変を当日に知りますが、岡崎に帰り着いたのは2日後のことでした。
一方の秀吉は、備中高松城で毛利の大軍と対峙していたので、知らせが届くまで2日かかっており、この時点で両者が費やした時間は、ほぼイーブンです。
そこから、信じられないスピードで、秀吉は軍を急旋回させ、畿内に取って返します。
家康が出陣まで10日の時間を要したのは、慎重な性格ゆえに、万が一にも負けることのないよう、じっくりと準備を整えたからでしょう。
また、家康にはとりあえず今、軍を動かせるのは織田方にあっては自分だけだ、との思いがあったはずで、この甘い判断が「家康一生の不覚」(?)となりました。