4月22日、24日、26日……誕生日が諸説ある

由緒書きによれば、旧暦の4月24日(現在の暦では5月22日)が牧野富太郎の誕生日となっているが、実のところ、4月の何日に生まれたかは定かではないようだ。母・久壽ひさえの胎盤と彼をつないでいたくだの残骸である“臍の緒”を収納した、いわゆる「臍の緒袋」の表書きには4月26日という別の日付が書かれており、これが正しければ、富太郎が母から離れ、この世に生まれ出たのは4月26日となるはずだ。ところが、厄介なことに戸籍簿には、24日でも26日でもない日付である4月22日が富太郎の誕生日として記入してある。なぜこうも誕生日を巡っていくつもの日付が生まれたのか、その理由はわからないらしい。

混沌とした生涯の始まりを象徴している

誕生日を祝う風習が定着している今日では、誕生日に諸説あるのは大いに問題となるだろう。しかし、富太郎が生まれた頃は、誕生日よりも干支えと何年なにどしに生まれたかが重要だったのだ(ちなみに牧野富太郎は戌年生まれである)。それというのも当時は皆、正月に1歳、年をとる年齢の数え方である、「数え年」が用いられていたからである。誕生日で年齢を数える「満年齢」が日本で普通になるのは、ずっと後の太平洋戦争以降ではないだろうか。

それもたしかにあっただろう。富太郎の生家でも彼の誕生日の不確かさを問題にしたことはとくにはなかったそうだ。が、筆者は生誕の日からして特定し得ない富太郎の出生こそが、後述する毀誉褒貶きよほうへんの入り交じる混沌とした生涯の始まりを象徴しているように思えてならない。彼の伝記ほど、真偽の分別の困難さに突き当たるものはない。そんな科学者・植物学者の存在を筆者はまったく他に見出すことはできないのだ。

3歳で父、5歳で母が病死

それは、富太郎の父・佐平が、慶応元(1865)年に病気のため39歳で世を去ったことに始まる。この時に富太郎はまだ3歳だった。続いて慶応3(1867)年に、母の久壽も病に罹り、夫の後を追うように35歳で亡くなったのだ。富太郎5歳の年である。共に30代の若さでの早死にである。

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父・佐平は、親戚筋の岸屋牧野家の養子となり、家付きの娘である久壽と結婚したのだ。富太郎は佐平と久壽の間に生まれた唯一の子、一人っ子だった。

3歳という、未だ幼い時に亡くなった父についての記憶はまったくない、と富太郎はのちに書く。その2年後の母の突然の死については、とても悲しかったことを覚えている、と記している。しかし富太郎は、その面影は何となく浮かべることはできても、多くの人が体験している“母親の味”や“温もり”、“慈愛”というものを、実感することはできなかったのだ。今でもそれを思い出す毎に、寂しさで胸が苦しくなると綴っている。