研一が台所に立つなんて

1968年7月19日、私は初めてニューヨークのジョン・J・ケネディ空港に降り立ちました。日付を覚えているのは、その日が娘の2歳の誕生日だったからです。

夫は仕事の都合で半年ほど前に先乗りしていました。当日は空港に出迎えにきてくれると思っていましたが、姿が見えない。出口で待っていたのは研一1人でした。

「会議らしいよ」と研一から説明を受けて、ニューヨーク郊外にある新居のアパートへ連れていってもらいました。ところが開けてビックリ、家の中は家具も何もないがらんどう状態。仕事が忙しい夫はずっとホテル暮らしをしていて、新居を決めた以外、家族で生活するための用意を何もしていなかったのです。仕事以外は全部後回し、社会生活にはまったく関心が向かない人でした。

夏休み期間中で前日にボストンからやってきた研一は、夫と一緒に新居に新聞紙を敷いて寝たそうです。

私たちが到着してからも夫は仕事で忙しく、新生活の準備はもっぱら研一が面倒を見てくれました。メイシーズやシアーズを案内してもらって家具や電化製品を買い揃えたり、スーパーマーケットで食材を買い込んだり。

「肉のこの部分はステーキで。チャック(肩の部位)は焼いても美味しくないから、カレーやシチューに使うといいよ」

「ユダヤ人は金曜日には肉を食わないから、魚になるんだ」

案内がてら、あれこれレクチャーしてもらいながら、私は1年ぶりに会った弟の“変化”に感心していました。

母親から真綿で包むように育てられた研一が台所に立つなんて、日本では考えられない。ボストンでは自炊の必要に迫られて、1年で随分料理にも詳しくなったようです。

研一がいてくれたおかげで、ニューヨーク生活のスタートは随分助かりました。

「姉ちゃん、わからない言葉があったらメモしておけよ。次にきたときに、教えるから」と言い置いて、研一はボストンに帰っていきました。実際、英語の言い回しを研一からいろいろ教わりました。たとえばタクシーに乗って5ドル出して、3ドルのお釣りを返してほしいときには、「Give me 3$」というより、「You may take 2$(あなたは2ドル取っていいわよ)」と言ったほうが女性の言葉遣いとしてはキレイだとか。

日本にいたときは気難しくてヘンな弟と思うことのほうが多かったのですが、姉弟の絆が強まったというか、仲良く付き合うようになったのはこの頃からだった気がします。

次回は「MIT時代の弟・研一(後篇)」。4月16日更新予定。

(小川 剛=インタビュー・構成)