アメリカと日本の「シラバス」の違い
この点で興味深い議論を、社会学者の佐藤郁哉さんがシラバスについておこなっておられます。
日本におけるシラバスの導入は、それこそ1980年代からはじまるネオリベラリズム改革の教育分野におけるひとつの帰結である1991年の大学設置基準の「大綱化」からはじまっています。大学審議会の提示した大綱をもとに、文部・文科省が授業改善の目玉のひとつとしてあげたのが「シラバス」だったのです。
それから「シラバス」は急速に普及していきますが、佐藤さんは日本におけるそれを、もともとモデルとしたはずの米国版syllabusとは似ても似つかない「和風シラバス」であるといわれています。
日本のシラバスは「無意味」
基本的に、アメリカにおいて「シラバス」とは、個別の教員と学生との契約であって、であるがゆえにフォーマットも多様です。ところが、日本では、シラバスといえば、画一的なフォーマットに統一され、当該教員の講義や演習スタイルの実態にはまったくそぐわないものになってしまったのです。
わたしたちもそれは心から実感するところです。シラバスではその都度の授業内容を具体的に書かねばなりませんが、少なくとも多くの文系の授業は、状況に応じて変化するものであり、あらかじめ定められません。さらに予習時間の指定など、とりわけ日本のように講義科目の多い状況においてはほとんど無意味です。
こうした項目が多岐にわたるのです。佐藤さんは、それを「シラバスもどき」であるといいます。たしかに、これはまったくそうなのだとおもいます。
しかし、ここでは少し視点を変えてみたいのです。