「親御さんが顧問の先生に気を使っているのがよくわかります。レギュラーになるのも補欠になるのも、決めるのは顧問ですから。ですので、子供の進路を決める重要な人物に、コロナ感染が怖いので練習に参加させませんとは言えないでしょう。暴力があっても口をつぐみます。そのせいで全国大会に行けなくなったら、わが子の進路をつぶすことになりますから」

暴力が「体罰」という表現で正当化されている

3つ目は、全国大会の魔力だ。

野球なら甲子園、サッカーは冬の選手権、バレーボールは春高、バスケットボールはウインターカップなどなど。各種高校生スポーツの全国大会が地上波で中継され、国民が高校生のプレーにくぎ付けになる環境は、欧米などスポーツ先進国にはあまり見られない現象だ。種目によっては、プロや社会人の大会よりも視聴率が高い。よって放映権料も高く、報道も過熱する。

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顧問や生徒が全国大会出場、優勝を目指すのは当然だ。目標があるから精進できるのだから。ただ、高校3年間という短期間で毎年のように結果を出すのは、簡単なことではないはずだ。

なにがなんでも勝利をといった勝利至上主義になると、顧問は生徒に対し感情的になりがちだ。そこに「体罰」が忍び込む。仮に一般の人が他者に暴力をふるったり、強い暴言によって希死念慮を抱くまで追い詰めれば暴行罪など犯罪になる。ところが、「体罰」と表現されることで、受け手によっては暴力が正当化されてしまう懸念がある。

それとは逆に、スポーツのとらえ方や指導を見直し、生徒の主体性を重んじ、科学的な手法で、故障やけがの可能性をできる限り排除する。その先に良い結果が待っていたというのが理想ではないだろうか。そんな活動であれば、暴力やコロナ禍の闇練習とは無縁のはずだ。

スポーツ経験がある親ほど子供に厳しい

4つ目は、保護者の意識にある「生存者バイアス」だ。

生存者バイアスとは、暴力指導の世界でサバイバル(生存)した、つまり何らかの選択過程を通過した人・物・事のみを基準として判断を行い、通過に失敗した人・物・事が見えなくなることだ。

2013年にスポーツ界や教育界では「暴力根絶宣言」が行われたが、わが子を守りたいはずの保護者が指導環境の改善を阻んでると感じる。なぜなら、親世代は自分たちが叩かれたりする指導を当然と受け止めてきたため、暴力に寛容な傾向がある。

特にスポーツ経験のある親ほど「あの厳しい指導を乗り越えたからこそ今の私がある」と思い込みがちだ。サバイバルした人は途中で脱落した仲間を「弱い人間」と見なす。よって、自分の子供も「弱い人」のグループに入れたくない。

事故の生存者の話を聞いて、「その事故はそれほど危険ではなかった」と判断する。話を聞く相手が全て「生き残った人」だから、そう感じてしまう。指導者の暴力も、自分が乗り越えたのだから「危険ではない」と思うばかりか、正当化さえしてしまうのだ。